やわらかな拒絶
役得
年の高
今は共有できる
白く知らない世界
Happy birthday to you
水槽脳の夢
Unhappy birthday
鏡よ鏡
超実践的誕生日贈呈品
この聲が聞こえたら























































































流線型のガラスは綺麗に研かれていて曇り一つない。中を満たした液体が反射を抑えるのか、あまりの透明度に触れてみないと、ガラスで区切られているとはどうしても思えない。
内と外を阻む硬質な壁。その感触を確かめるように、まずは触れた指先で、そして徐々に掌全体で撫でる。
何度も、何度も、飽く事なく繰り返す。それでも手袋越しに伝わってくる温度は、いくらこちらから分け与えても冷たいまま。まるで全く相容れないものなのだと迫害されているような冷たさに、それでも良いからと追い縋った。
手の届く場所にある。
すぐそこにある。
喪ったと思ったもの。事実、喪ったものがそこにあるとして、手を伸ばさずにいられるものなどいるものか。それが、心のうち広く深く居座るものであれば、尚更。
この隔てるものが邪魔だ。この透明な壁が邪魔だ。
そう思うのに、どうしても破壊する事も奪う事も行動には移せなくて、壁に手を這わせるのみに甘んじる。
それを、望まれているような気がした。
…いや、違う。望んでいるのは俺だ。
この壁が無くなる事を怖れている。視覚以外の五感で、感じて、認識して、認める事を恐れている。
アンタが。
アンタが、体だけ置いていってしまったという事を認めたくないと、恐れている。

「逝かないで、ほしかった」

直接的な言葉を敢えて使わなかった。それは俺が壁に守られ、隔てられる事を望んでいる理由と同じものだったから。
冷たいガラスを撫でる。指先が何にも引っ掛からないでスルスルと滑っていき、どこか物足りなさを感じた。それでも。この薄くて透明な壁を取り払うにはどうしても力が足りなかった。
今度はヒヤリと冷える壁に慈しみを持って掌をつけた。
こんな柔らかい拒絶ではなくて、アンタに直接触れたかった。でも俺にその勇気はなくて、拒絶の向こうから未練がましく手を伸ばすのが精一杯。空になった入れ物にさえ、触れられない。いや、空の入れ物はいらないんだ。現実を突きつける為だけに還って来たなんて、認めない。認めたくない。
俺はアンタにいなくなってほしくなかった。

「生きていて、ほしかったんだ」

泣いて笑って怒って憤って妬んで憎んで喜んで楽しんで甘えて嘲って悲しんで傷ついて寂しがって笑って笑って笑って、生きて。
そうやって生きているアンタが良かったんだ。
固く握った拳が手袋を擦ってキシキシと音を立てた。
見詰める先。
流線型の棺に護られた先に、眠る姿だけが浮かんでいる。






――――――――――
静かな部屋の中で機械だけが一度唸り、また静けさに明け渡した。

























































時折、同じマイスターである男が訪ねてくる。
茶色い髪の優男のようにこちらの都合もなく唐突に押しかけてくるのではなく、情けない顔で伺いを立ててくるから断れた試しがない。
今日も。





「はい、どうぞ」
「…………すまない」

いつの間にか潜伏場所に上げる事になり、いつの間にか共に食事をする羽目になっていた。
確かに昼時だが。確かに俺は手ずから食事を用意する事ができないが。それでも一応客である彼に家主の俺が振る舞われるとはどういう事なのだろう。
家主は客をもてなすものだと、以前茶色い髪の男がぼやいていたのを思い出す。
家主は客をもてなすもの。だが向かいの席についている男はそれを望んでいない。
ああ、そうか。期待されていない。そして逆に、食事の世話すらできない俺が気遣われている。
このような、親ではない他人から与えられるそれが、一般的に優しさと呼ばれるものなのだろう事は分かっている。理解している。
だがそれは、自分で自分の面倒も見られぬ依存するしかない幼子だと言われているようなものであり、実際その通りである事を言葉をなくして認めさせられる行為だ。その事実に唇を噛む。
目の前の男は深く考えずこうしているのだろう。それも分かっている。理解している。頭では。それでも悔しいのには変わりない。
頼らなければ生きていけないなどというのは弱さだ。一人で全てできるようにならなければ。憐れみをかけられる余地もなく、隙もなく、独りで立てるようにならなければ。
その為には、まず。

「アレルヤ」
「な、何?」

声をかけると何故か狼狽した答えが返ってきて眉を顰めたが、そんなものは些細な事だ。構わず言葉を繋ぐ。

「俺に料理を教えてくれないか?」






「え?何やってんの?」
「料理」
「うん… 確かにそうなんだけどね…」

そうじゃなくてだな、とぼそぼそ呟いているリーダーを見つめて苦笑する。
誰だって驚くよ。少年は何でもないような顔してるけど、以前ならそんな事には見向きもしなかったのに。
見違えるような変化だ。いつも孤立する事を望んでいるような姿ばかりを見ていたから、何とか馴染めたら良いのにとは常に思って接してきた。それがこの結果になったのなら、自惚れかも知れないけど、その手伝いを少しでもできたんだと思えて嬉しくなる。
ちょっと思考を飛ばしていたら作業を終えた少年が、次は何だ、と目で訴えてきていて慌てた。

「え、と、次は皮の上にスプーンで具をのせて、襞を作りながら閉じるんだよ」
「……?」
「これは口で説明するの難しいね。やって見せるよ」

スプーンに少年が混ぜ終えた具を掬う。うん、粘りが出ていて固さは調度良い塩梅だろう。飲み込みの早い生徒に目許を緩ませながら、皮を手に取る。
具を皮に納め、縁に水を引く。そして次に半分に折り畳んだ皮の所々を重ねて5枚くらい襞を作り、半円の立体をよく見えるように掌に乗せた。
こうするんだ、と手元に集中していた視線を向けると、不思議なものを見たように目を輝かせた少年がいる。ごく分かりにくい変化ではあるが、確かに。
最近、やっとこの僅かな変化に気付けるようになって、俄然やる気が出てきた所だ。それまでは感情をきちんと表現できるのか心配になるほど無表情ばかりだったのに、こんなにも変わるなんて。
思いもよらなかった変化。それに気づける位置にいる事が嬉しい。凄く。物凄く。
最初は少年からの申し出がきっかけだったけれど、今はもっとその表情を見たい。いつの間にか目的は180°変わっていても気にしない。
今は暇を見つけては料理を教えている。料理が得意で、本当に良かった。

「じゃあ今見せたようにやってみて?」
「皮には、」
「ん?」
「皮には何で水をつけるんだ?」
「ああ。皮には小麦粉をまぶしたでしょ?小麦粉は水を混ぜると糊みたいな粘りが出るんだ。それで具が出ないように蓋をしてるんだよ」

無言の納得。その表情もキラキラしていて可愛い。普段からこうだと良いのに。
でも、これはこれで。少年のこの表情を見られる。料理を教える駄賃にしては多過ぎる位だ。
嬉しい笑顔は止められないまま、少し下にある一生懸命な頭を目を細めて眺めた。






――――――――――
「なにこれ、すっごい疎外感」

























































自分の世話くらい自分で。
それには食事の世話から、という事で黒ずくめの青年に料理を習う内に、いつの間にかマイスターを取り纏めている茶色い髪の男まで参加するようになっていた。
最初は、俺も料理を教えてやる、と言ってきたのだが、既に別の人間に教えてもらっている最中であるし、以前数度食べたこの男の料理は馬鈴薯を使ったものばかりだった事を思いだして断った。それでもやたら煩く食い下がってきたのだが、相手にしないでいると諦めたようで、暫くは静かにしていた。それが先日。

「俺が洗い物をする」

などと言い出した。
言い出したらしつこいのがこの男の特徴だ。ただ、今度はこの男の発想としては珍しく、害の無いものだった。
洗い物くらいなら勝手にしたら良い。わざわざ苦労を買って出る謎の行動は、相変わらず理解できないが。




料理には洗い物が付き物。誰かがやらなければならない。そう考えると、俺たちが作っているのに手伝いもせず食事にありついているのだから、そのくらいして然るべきとも言える。
いそいそと流しに向かう姿は随分と嬉しそうで、洗い物がとても魅力のある行為のように錯覚してしまいそうになる。だが経験から言うと、調理道具やらを洗っている時に楽しいなどと感じた事は一度だってない。なので以前、洗っている時間を自身の思考時間に充てている内に皿を5枚割り、見かねた青年が交代を申し出てきた。それ以来、割れる心配のないものだけを洗うように言われている。
考え事をするには良い時間だと思うが、あんなに楽しそうには出来ない。あの男の感性はやはり特別にできているのだろう。
そうは結論付けたものの、何かコツでもあるのかと勘繰ってしまう。洗い物が苦ではなくなるような秘訣を、あの男は知っているのかもしれない。
分からない事は行動あるのみ。

「俺も手伝う」
「お、助かるよ」

エプロンをしてこいと言う男は、先程より嬉しそうに細めた目で歓迎の意を表してきた。
一つ頷き、エプロンの紐を胴回りで一周させて手元を確認しつつ前で縛る。蝶結びというものを練習し始めたのも料理と同時期で、最初の2回までは黒ずくめの青年が苦心しながら説明してくれた。そこから今の状況を考えれば大分上達したのでは、と思う。
できた蝶結びの両端を少し引っ張って、輪が小さくなる事を確かめる。よし、蝶結びはできた。あとはほどく時、玉結びにならなければ完璧だ。
先程まで一緒に座っていた青年の方を見ると、優しげな笑みを浮かべてひらりと手を振ってきた。禁止令が出ていた皿洗いの許可が下りたのだろうと解釈し、こくんと頭を縦に振って茶色い髪の男の隣に並んだ。
もう一つ置いてあるスポンジを取り、隣にあった食器用石鹸に擦り付ける。どの程度かよくわからないでいると、つけすぎ、と笑われた。
ム、としながらも男の真似をして皿にスポンジを押し付け、ゴシゴシと擦る。その力が強すぎて、持っている手から皿が滑り落ちそうになった。

「そんな力入れなくても落ちるから」

何がそんなに楽しいのか、クスクスと笑いながらそう釘を刺される。またもや、ム、として力を弛めると、その調子だ、と子どもにするように煽てられた。
暫く目の前の皿に一生懸命だったが、だんだんと要領を得てきたのでちらりと横目で男を盗み見る。力を抜いて自然体で洗い物をしている姿は、その行為に対する慣れを感じさせる。流れるような作業は淀みなく、的確で早い。
こんな所にも差を感じる。俺はまだまだ経験不足の餓鬼なのだ。
何だか釈然としなくてギリ、と歯噛みした。



「お前さん、洗い物上手いじゃん」
「うん、前より上手になってたよ」
「助かった。また一緒にしよっか」
「嫌だ」
「何で!?」






――――――――――
今度は手伝いなんかじゃなくて、一人で完璧にこなして見せる。

























































戦場の夜は明るかった。
大抵、空襲があるのは夜で、雨の代わりに降る鉄の塊は、重力に引かれて地面で爆ぜる音を響かせる。鉄の雨はその飛沫で周囲の形あるものを嘗め、次に朝日を迎えた時には焦土へと作り替えてしまうのだ。
煤けた大地に申し訳程度の残骸。そこに生きていく為のものは何もなくて、死さえも根刮ぎ奪われていった跡を見せるだけだ。
全てを一瞬にして虚ろにしてしまう炎は決まって夜を襲い、炎に食われて赤く浮かび上がるその姿を不気味に助長させるものになり下がる。
炎に包まれれば存在ごと一瞬で消し去ってくれるのだろう。だが、俺を嘲笑うように、いつも遠くにその姿を垣間見せるだけだったから。

明るい夜は怖い。





インターホンが鳴ったのは午前も2時を回った頃だった。
隣人が訪ねてくるには有り得ない時間帯で、他にこの部屋を訪れるものなど思い付かず訝しむ。
それでも、訪問に気付いてしまったのだから応対しなければならない。そう思って、扉に繋がる通路に出た。
不審に思いつつもガチャと扉を押し開ける。すると扉の隙間から手が伸び、勢いよく引かれた。
扉に半分体重を預けていたから堪らない。扉と共に前へつんのめる。

「無用心だな?」
「ロックオン・ストラトス…?」

何故ここに、という問いかけを含んだ呼びかけには答えないまま、夜中に来るような不審者相手にすぐ扉を開けてはいけない、と尤もらしく説教をしてきた。一気に驚きが不快にすり替わる。

「その不審者はどこのどいつだ」
「勿論、俺は含まれてないよな?」

どんな理屈だ。
そう返そうかと思ったが、この調子では実のない問答が続いてしまうと、経験から推し測る。こんな夜中に立ち話では周囲に迷惑がかからないとも限らない。だとしたら会話を早く切り上げるの越した事はない。
問答を楽しむ傾向のあるこの男には黙っているのが最良の策だ。沈黙して扉を閉めようとしたら、慌てた様子で扉にかけた手に逆の力を込めてきた。
「ふざけてすいませんでした!頼むから中に入れてください!」
「何故」
「何故ってせっかく東京まで来たし、明日くらい観光したいだろ?…、って嘘です!お願いだから閉めないで!こんな寒空の中放り出されたら死んじゃうから!」





「ふぁ〜、生き返る〜」

白磁のコップに、直に触れるその指先は、常の皮手袋をしていない。
本来、外気から体温を守るために嵌めるらしい手袋を、何のためか男は屋内でも殆んど外そうとしない。理由はあるのだろう。だがそれを、こちらから尋ねた事もなければ男が進んで説明した事もないので、そういうものなのだと受け入れていた。
当たり前の事ながら外す事もあるのか、と少しの驚きと共にコップで暖を取る指先を追った。
白い手だ、と思う。
肌の色など気にした事もなかったが、こうして比較するものと一緒にあるとその白さを確認出来た。黄色人種にはない透ける白。その手が寒さで赤くなっている。
色が白いと血管が透けるらしいと聞いたのはいつだったか。確かに、それは事実なのだと目の前の男が証明して見せている。

「なぁに見てるんだ?」
「別に何も」
「手ばっか見て、そんなに珍しい?」
「分かっているなら聞くな」

へぇ、やっぱり手、見てたんだ、といやらしく歪んだ口許が言って、自然と顔が渋く歪んだ。
鎌をかけられた。本当にこの男は神経を逆撫でする事が得意らしい。
正面の顔を見ていると苛立った神経が治まらない。ふい、と視線を外すとそんな態度でも面白いのかクスクスと笑い声が大きくなった。

「お前さんは素直で真面目だなー」
「あんたの発言は意味不明だ」
「そうかぁ?刹那よりマシだと思うけどなー」
「出ていけ」

まぁまぁ、と暢気に宥める響きが、俺が本気で追い出そうとする事がないと確信している。それが癪に触った。
もう同じ空間にいる理由もない。夜は休息の時間だ。

「刹那、どこ行くんだ?」
「毛布を持ってくる。寝るのにはそのソファを使え」
「えー、ベッドじゃないの?」
「そんなに追い出されたいか」

扉の敷居を跨ぐ時に、刹那は短気なんだから、と呟くのが聞こえた。
だから、取ってきた毛布を扉を開けたその場所から、ソファに向かって投げてつけてやった。




バサリと布団の端を持って俯せに被る。枕に一旦頭を置いたが、なんだかゴロゴロするので腹立ち紛れにベッドの端へとおいやった。枕は馴れない。
眠気がやってくる気配はない。じっと踞るようにしているほど、暗闇が視覚から、静けさが肌から染み込んでくるように思える。今は、人間が休息を取る時間。静寂と闇の支配下。
もう一人の人間が壁を隔てた向こう側にいるとは思えないほど静かで、夜という時間の息遣いを改めて認識させられた。
それなのに、明るい。
この国に街灯のない場所なんてない。統一された暖色の灯りが、隅から隅まで夜を駆逐する。


暖色の光が遠く、近く、揺らめくのが見える。
遠くで轟音が唸る。
一瞬の閃光が伴った暴風に砂塵が舞って、けぶる後に見えてくるのは決まって廃墟だ。人間の手から離れた人間を拒む石塊。
その中には赤い化粧を余儀なくされた肉塊も混ざっている事を知っている。
そうして僅かな可燃物に火が点るのだ。

「…刹那」
「……!」

記憶の中にはない声が聞こえた。
違う。その名前は俺のではない。俺の名前は、

「刹那、寝た?」

再び聞こえたその声の主に、唐突に気付いた。そうだ、俺は。
ここは以前怯えながら走り回っていた場所ではないのだと、ゆるゆると認識が追い付いてくる。

「ねぇ、刹那。中には入らないから、ここで寝て良い?」

絶対に入らないから、と重ねて問うその声がどこか必死で、訳もなく可笑しくなった。






――――――――――
明るい夜を怖れる俺ではなく、あんたがそれを願うのか。
ムクリとベッドの上で上体を起こし、布団を羽織ったままずるずると移動する。開かなくなってしまわないように、開いた時にぶつからないように、扉の横へ座り込んだ。
そして仕方ないという風状を装って言ってやる。

「好きにしろ」

























































ふわりと意識が持ち上がるのを感じる。
薄く開いた視界に映るのは見慣れた場所。小さな島国の中央に据えた自分の部屋だった。
見慣れたと言っても差し支えない見覚えのある天井には、一切の染みもなく真っ白で酷く広い。
だって壁がないのだ。ずっと天井が続いているように見える。
窓のような枠がついていなければ、そこに壁があるなんて感じられなかった。その窓もカーテンがかかっていないので窓なのかどうか自信が持てなかった。
更に、枠に嵌め込んであるガラスはそれが存在しているかここからでは判断出来ないほど透明で綺麗で、光を一切反射していないのかと思えるほどだった。ますますただの枠なのでは、という予想が有力になる。
ガラスも無いような枠であるなら外の景色がよく見えそうなものだが、枠の中は全くの灰色で、どこか発光しているように眩しかった。
枠の中と外の微妙な色の違いだけが、その中が天井ではない事を物語っていた。
瞼がまた重くなる。それは耐え難い重さで久しぶりの重力のようにも思えた。
そうして何も考えられないままに白い世界を閉じた。





次に目が覚めた時、明るいには明るかったが夢現で見た部屋より薄暗く感じた。天井もただ汚れを許さない白が広がっているだけではなく、タイルを敷き詰めたような仕切られた白だった。
ここは見知った場所ではない。
違いは一目瞭然だったのに、そう判断するまで少しの時間を要した。
ムクリと起きて辺りを見回す。思考能力が著しく低下している。そして今気が付いたが頭が痛かった。 「刹那!?」

驚愕が色濃く滲む叫びが聞こえた。
俺がここにいる事を否定されているような僅かな喪失感。その元凶に首を向ける。
背の高い男がスライド式の扉の前に呆然と立っている。それこそ、信じられないものでも見てしまったかのように呆然と。その姿に喉の奥がいがらっぽくなった。
そして沸々と煮えるものが上がってくる。自分はまだここにいるのに。存在を抹消されて、化け物のように見られるなど不条理だ。理不尽だ。
そう思うと見下されているのも気に食わなくなってきた。ベッドの上であると普段以上に身長差が出る。
いつもは圧し殺せている感情は今日に限って緩やかに、しかし抗い難く衝動を煽る。口を開こうと予備動作に入る。
が、それは阻止された。扉の前にいた筈の男がそこからの短い距離をバタバタと走り、その勢いのままガッシリと肩を掴んできたからだ。
今度はこちらが呆気に取られ、唖然と見上げる。

「刹那、目が覚めたんだな!大丈夫か!?痛い所は!?苦しくない!?」
「痛い」
「ど、どこが!?」
「あんたの手が、だ。離せ」

いつものように振り払う事は出来なかった。体を起こした時以上に、手を持ち上げるという行為はひたすら重い重力に縛られていた。
言われて、男が慌てて手を離す。その焦りようが可笑しくて、先ほどまで感じていた苛立ちが空気に溶け出していった。
沈黙が降りる。いつも遠慮という言葉自体知りもしない態度で接して来るのに、こちらの様子を随分と伺っている男が面白くて敢えて口を噤む。
やはり先に折れたのは男の方。内容はベッドに寝ている理由を理解しているか問うものだった。それに、素直に首を振る。怪我による痛みはあるが、記憶が曖昧だった。

「ミッション中の戦闘で頭部を強打。で、昏睡状態。検査結果から言うと、頭の怪我の割に異常はなかったんだがな、どうにも目を覚まさないときたもんだ」
「怪我からどのくらい経ったんだ」
「今日で丁度一週間になる」

一週間。それには素直に驚いた。
そんなに寝ていたのか。長いとも、短いとも感じなかった。何も、何も。
未だ成功を見ないタイムトラベルを経験したような、時間だけをすっぽりと抜けた感覚。その間にあったのはあのやけに白い自分の部屋だけだ。
調子が戻ってきた男が続ける。

「ホント心配したんだぜ?コックピットから引き摺り出したら頭から血、流してるし、問題なしってドクターが言った後も眠ったままだし」

いつもの茶化ような音が混じる口調とは裏腹に、絡んだ緑が事の他真剣で何も言えなくなる。すぐそこまで出かけていた言葉を少ししか溜まっていなかった唾と共に飲み込んだ。
いつもと違う男の態度。俺に何を望んでいるのか分からない。
こんな時、どうして良いのか分からなくて、緑に深く沈む本心を見ようと目を凝らした。


事情を聞いた後、いつになく寡黙であろうとする男により沈黙がもたらされた。
気を遣っているようなのだが、無用な心遣いに溜め息が出そうになる。ただ、息を吐くと男が過剰に反応するような気がした。ふい、と反対の窓に首を回す。
一瞬の既視感。
それがあの白い窓だと気付く。でもあの時の様に一面の白ではなく灰色と領土を分け合っている上、小さな白が灰色を丸く切り取っていた。木の裾から伸びる白の上を行く影は黒ではなく薄ら青い。

「…………?」
「何、見てんだ?」
「白い……」
「ああ、雪だよ」

見た事ないのかと些か驚いたような呟きに、答えられない。耳に入らない。一面の真綿にそれどころではない。
砂とは違う、紙のように混じりけのない白。でも紙とは違い硬質ではなく。しかし真綿の頼りなさはない。
不思議と汚れなく、儚さと存在感を有している。こんなもの見た事がない。

「綺麗だよな。でも積もったら厄介だぞ」
「厄介?」
「始めは良いけど踏み固められたら凸凹な上に滑るし、溶けたら溶けたでベッチャベチャ」

しかも埋まる、と付け足す嫌そうな顔が実際の経験からこの話が出来ている事を伝えてくる。
もう少し。

「他には?」
「他かぁ?うーん、と、あ!痛い!」
「痛い?」
「俺の住んでた場所は風が強くてな、雪が横に降るんだ」

風の強い日に傘が役に立たない事があったのを思い出す。あれと同じ現象が起こるらしく、尋ね返した俺にうんうんと頷いて腕を組んでいる。

「それが雪の日に起こるワケ。酷いもんだぜ?雪も氷の結晶みたいなもんだから、凄い速さでぶつかると痛ぇんだよ」

手をぶらぶらと振る。その仕草が、寄せる眉が真実味を持たせる。
だが、俄に信じがたい。
「あんなに、小さいのに」
「小さいから、また痛いんだよな」






――――――――――
そうなのか。初めて知った。
窓の外に視線を投げる。
内側にいるためその痛さには触れる事もないからか、ブラウン管を通したように実体のないものにしか感じられない。
次は触れてみたい。
そう思った。



























































「これは、何だ?」
「何だ、って…誕生会だろ?」

何故か勢揃いしているクルーを見渡し率直な質問を口にすると、湖面を思わせる眼が疑問を浮かべながら当然の様に返事をした。しかもお前の、と続けられても困惑しか追従しない。何だって今、誕生会などするのか。理由がない。

「何故」
「誕生日は祝うものだろ」
「………」

さも当然の様に答えられてそうだっただろうかと記憶を探るが、ヴェーダの様に上手く目当ての情報には行き着かず徒労に終わる。出てきたのは自分にはそんな経験がないという事実だけだ。
誕生日にしても正確な日にちを覚えていない。というか知らない。生まれた日など自分では知りようがないではないか。ただソレスタルビーイングに入る為の調査にそんな事が含まれていたのを朧気ながら覚えている。その時も答えを持っていなかったので結局質問記入日をそのまま当て嵌めたと記憶している。
歯切れの悪い態度の所為か目の前にいる長身の男は不安を煽られた様だ。感染したかの様な同様の困惑と動揺の焦りを僅かに含んだ顔が此方を見ている。

「違ったのか?」
「いや…」
「なんだ驚かせるなよ。日にちを間違ったのかと思ったぜ!」

景気良く笑顔になったリーダー格の青年は、気付けば場を乱していく面々の先手を打ってグラスを持つ様に促した。

「刹那の誕生日を祝って、カンパイ!」




.....................




何も知らない子ども。戦争に見入られ戦争に囚われ戦争に牙を剥くことしか学べなかった子ども。それ以外の何かを伝えられたら、と懇願に近い祈りを祈る神もいないのに捧げている。



「ロックオン」
「ん?」
「こんな時、どんな顔をしたら良いんだ?」
「お前の好きな様にしたら良いさ」

聞いてくる時点でエクシアを駆り戦争を狩る少年にこの誕生会というものが本質的に伝わっていない事を悟りはしたが、まぁ企画した俺達にしてみれば笑ってくれんのが一番嬉しいかな、といつもの軽口に似せて希望を述べてみた。何も分かっていなくても、此方の意図を汲めなくても、そうしてくれれば錯覚くらいは出来るから。

「そうか」

短い返事の所為だったからか丁度瞬きの間だったからか。小さく呟いた口元は刹那緩やかに歪んだ。
ああ、勘違いをしてしまっても良いのだろうか。




.....................




初めて遭遇した誕生会という催しがどういう意味を持つのかを理解した後も、疑問や困惑が払拭される事はなかった。何故こんな事をするのかまるで分からない。生まれた日など祝わなくても、ここに今存在している事実だけで十分ではないのか。生きている。ただそれだけだ。

「君のその意見には賛成だな」

いつの間にか秀麗な顔に霧氷の如き無表情を張り付かせた男が隣で声を発した。珍しい事もあるものだ。この男と意見が合うとは。

「こんな所で油を売っている暇はないというのに」
「………」

それには大いに賛同する。俺達はソレスタルビーイング。ガンダムで戦争を滅する事を目的としている私設武装組織。しかし誰もが望む戦争根絶を唱っているとしてもどこにも属さずどこにでも最高峰の武力を持って牙を剥く以上、世界からしてみれば驚異で脅威の対象であり共通の敵でしかない。自分達の牙が小さいものだと思い知らされた世界は、ヒエラルキーの頂点を奪回しようと今度はその武器を爪に変えて今も必死に磨き上げているというのに、こんなにのんびりしていて果たして良いものか。

「時々こういう時間もないと息が詰まっちゃうでしょ?」
「だが時間は有限だ」
「それでもだよ」

すぐに反論する美貌の青年に、声を怒らせる事もなくやんわりと、だが確かな否定が重ねられる。少し高い位置にある細められた銀の眼と共に、諭す響きを多く含んだ声音が微笑を加えて緩く広がった。

「人には息抜きが必要なんだよ。ずっと気を張ってたら効率も悪いし、失敗も増える」

そういうものなのだろうか。だから、時折小言を言っていないと生きていけないのかと思う程やたら構ってくる青年や、眼の前でにこやかに笑っている青年が、何かと理由をつけて邪魔しに来るのだろうか。思えばその多くの場合が時間の経過が意識外にあり、寝食を忘れている傾向にある。

「だからほら、二人とも折角の誕生会なんだから楽しまないと!」

いつもは傍観者的位置から動かない彼もこの空気に酔っているのだろうか。主役が壁の花じゃ盛り上がらないでしょ、とあろう事かどう見てもドンチャン騒ぎと化している方へ背中を押してくるのだからたまったものではない。全力で抵抗して何とかやり過ごす事に成功した。





.....................




誕生会の意義がわからなくてもアレルヤのお陰で異議を唱える気はなくなったらしい。壁の花なのは相変わらずだが出て行こうともせず騒いでいる面々を無感動に見ている。
やはり主賓がこれではな、という思いがジュースをウイスキーの様にチビチビと飲む少年を見ている間に膨れ上がった。ので、今は一輪となっていた壁の花に話しかけた。

「そんな壁際じゃ詰まんないだろ」
「そうでもない」

やはり素っ気ない言葉が投げ返されたが棘が綺麗に落とされたそれに、少しだけ眼を見張る。確かに楽しんでいる、とまではいかないのかも知れないが嫌がってもいない様だ。
酒の所為ではない緩やかな暖かさを感じ、つい常の饒舌に拍車がかかるのを止められなくなる。いつもこれで心の冷える思いをするのは自分なのに、この時も迂闊にも忘れていたのだ。

「お前の誕生日なんだから楽しまないと損だぞ」
「………」

変なタイミングの沈黙に空気が変わるのを肌が感知した。何かに触れ振れた感触。

「俺のではない」
「…?」
「俺は自分の誕生日を覚えていない」

ああ、ここにも。折角やっとの思いで咲いた花を手折る手があったのか。

「じゃあ今日は…」
「今日は俺がソレスタルビーイングに初めて来た日だ」

そういう意味では誕生日かも知れないな、と独り言が通り過ぎたが、逃げる言葉を捕まえる手は動こうという意思をとうに亡くしていた。何だってこんなにも多くの手がこの少年の行く先を塞ごうとするのか。もう放っておいてくれれば良いのに。やっと手に入れた普通を、取り上げないでやってくれ。

「そもそも誕生日とは神の生まれた日を祝うものではなかったのか?」
「確かにそういうのもあるけどな… 」
「俺は神じゃないから誕生日をされる謂われはない」

どんな状況で育てば誕生日を知らないでここまでになるのか。信じる事を止めた神に祝う儀式だと、今まで信じて来たのか。
これが悪夢であるなら何としてでも醒ます手に、振り払う手になりたかった。水の乏しい荒野にやっとの事で育ち蕾を開いた小さな花を、何としても他の植物から守ってやりたかった。叶うものなら何度だって懇願する。しかしこれは現実で。どんなに祈ってもない手には縋れない事を、もう痛いほど知っている。あるのはこの血で汚れた生身の両手だけ。何がそんなに気に入らないのか。もう手放してやっても良いじゃないか。なあ、神様とやら。

「何言ってんだよ。お前さんの世間知らずも相変わらずだなー。今度からは毎年祝ってやるから楽しみにしてろよ」
「毎年、あるのか…」






――――――――――
少しげんなりした様子に苦笑をもらして。
この世界を変える事を改めてその花に誓った。
























































「刹那」

隔絶されたベランダによく響くテノールの呼び声。それに一瞥だけくれて再び夜空へ視線を戻す。
あの男の呼びかけは癖の様なものだ。結局、隣に並ぶまでは要件を発さないから、振り返るだけ無駄に終わる。
気が付けば、あれだけ収集のつかないどんちゃん騒ぎもいつの間に終息したのか静まりかえっている。部屋自体が本当に世界から切り離されてしまったようだった。
皆どこへ行ったのだろう。こんな夜半に。大勢で。

「天の川、見えた?」
「天の川?」
「あれ?織姫さんと彦星さん、探してたんじゃないの?」

呼びかけに対して返事をしなかった事を咎めもせず、男は横に立って手摺に凭れた。俺と同様、暗い天を仰ぐ。
何の事か分らない。問いに対して首を傾げると、理解してなかったのか、と困ったような呆れた顔がこちらを向いた。そうして得意そうに人差し指を立てる。

「今日は年に一度だけ、引き離されてた恋人が会える日なんだよ。だから皆で祝って、ついでに俺たちの願いも叶えて、ってお願いするんだ」
「詳しいな」
「実はアレルヤの受け売り」

で、因みに二人を引き裂いてるのが天の川、との説明が加わる。
くすくす一人楽しげに笑っている。その様子にやはりこの男も酔っているのだと確認して、改めて空を眺めた。
今日は雲が無い。それに加え、夜空を愛でる祭りだからか、いつもは煌々と星を隠している街灯も遠慮して成りを潜めている。だから星がよく見えた。
満天の星。こうして見上げているからかいつもよりも多く輝いている気がする。
空気の層を抜けてくる光は研磨され、柔らかく薄い布を纏って地に降り立つ。

溶けてしまいそうだ、と。手を伸ばしたい衝動を抑えて思う。
多くの星が手招きをしている。瞬きを繰り返し、おいで、おいで、と。
空と自分が近くなる。境界が曖昧になる。
すぅ、と溶けていく。
空へ。宙へ――





「刹那は何かお願いしたのか?」

声が融解を寸でで止めた。
突然形を与えられて、何を問われたのか分らなかった。言葉を反芻する。
何か、お願い。

「ガンダムになる、と」
「願いって言うか、誓いだろ。それは」

その言葉に頷きを返す。
男から今日の催しの由来を聞く前に、願い事を短冊に書くという風習がある事だけは聞いていた。
願いはなかった。願いは誰かに叶えてもらわなければならない。自分より富も、力も、権力もある誰かに。努力しても叶わない願いだから、力ある誰かに頼むのだ。
でも願っても叶う筈はない。同じ人間に願うくらいなら自分で何とかした方が余程建設的だし、いもしない神に願うなど馬鹿げている。
だから書いたのは誓い。誓いなら他者の手を借りず一人で達成できる。こうしたいという方向に努力していける。

「神はいないと言ったら空の二人は神様じゃないと言われた」
「アレルヤに?」
「いや、ティエリアだ。それでも願う事などないと言ったのだが、ならば空にいる人達に誓いを立てたら良いのでは、とアレルヤが」
「お前さんってアレルヤに弱いよな」

夜を映した目が細くなる。
何か返そうと思ったのだが何も浮かばず、口を開く事無く空を彩る輝きに目を向けた。
一瞬の会合。一時の逢瀬。川が目視できる夜にしか会えない恋人。
空の二人の願いは叶っているのだろうか。刹那にも満たないたった一間だけで、次に会える時まで辛抱強く待つ為の糧になるのだろうか。
ああそうか。だからあんたも。

「ロックオン。俺はガンダムになる」
「どうしたんだ?急に」
「聞け。俺は戦争を根絶する。歪みを正して、ガンダムの存在を知らしめる。俺たちが生きて存在する事こそが、その証明だと世界に突きつけてやる」

だから。



「あんたは眠っていたらいい」



きょとんとした顔をまっすぐに見据える。静けさが黒い翼を広げ、夜闇へ同化していく。
風さえも凪ぎ、言葉が空気を震わせるのを待っていた。
クスクス。耳に届いたのは小さく押し殺した笑い声。

「あーあ、やけに饒舌だと思ったらこれか。お前さんは現実的過ぎんだよ」

盲目的に、受動的に、疑いもしなかったら、もう少しこのままで居られたかも知れないのに。
こちらを向いた苦笑いは、記憶にあるものと同じ色に、若干の闇を加えてあった。
くるりと夜空に背を向ける。

「でも仕方ないか」

現実を見据える事をしなくなったら刹那じゃないもんな。
小さな笑いは実に楽しそうで、当分やみそうになかった。

「あんたがそう望んでいる。だから俺はそうするだけだ」
「かっわいくないねェー」

だったらちょっとくらい騙されてくれったっていいでしょー、と冗談めかした声音が追ってくる。それも願いだったのか。
あんたの願いは分かりにくい、と眉根を寄せて文句を一つ。ポン、と頭を押さえられたが、仕方ないのでそのまま好きにさせた。
今日は願いを叶えてもらう日なのだろう。俺に出来る事で良いなら空にいる二人の手を煩わせるまでもない。

「じゃあ、頼んだ」
「了解した」

片手を上げてベランダから出ていく背中を見送り、また空を見上げた。空は輝きを失わず、闇を少しだけ柔らかくしている。
一年に一度。
それだけでも会えるのなら、耐えられるのかも知れない。
俺は耐えられるだろうか。だが託された。

なら、あんたには俺の誓いを託すから、そこで見ていてくれ。






――――――――――
肺にはもう空気が残っていないに、どこからか気泡が浮かび上がり外へと逃げて行った。
ここは、常に循環している液体で満たされているため、浮力で体が持ち上がる。
力を失ったまま動かない容れ物でも、重力の縛りがないのはどこか物足りなかった。
茫洋としているのは感覚だけではなく、はっきりするものなど何もない。
それでもどこか幸福な夢を放棄してしまった喪失感を感じていた。ああ、今度はいつ会えるだろう。
一筋だけ。
眦から零れそうになったものがあったが、瞼より外へ出た瞬間、周囲を取り囲む液体に溶けてなくなってしまった。


















































.




「………」

見上げる空は真っ黒で、近くに街灯もない場所だから、夜目が効かなければ夢と現の境も分からなかった。
それをはっきりと隔てる為に、空からは冷たい滴がしとしとと降り注いでいる。
ただ、土地を潤すその滴が目に写る事はない。雨雲が更に深くした暗闇では、反射しようにもその元となる光がないからだ。その代わり、体温を少しだけ空気に放つように、ひやりと膜を張る感覚を触覚に訴える方法で存在を証明していた。
窓からは見えなかったそれに、外に出た途端気付いたけれど、傘は持たずに玄関の鍵を閉めた。そういう気分だった。



滴を溢し続ける雲のお陰で、一切星は見えない。一月前はとても綺麗に晴れていたのに。
小さな落胆が口をついて出た。期待していた訳ではなかったけれど、こうしてどんよりと空を飲み込んでいる雲が現実としてあると、残念だと思った。
雨が顔に当たるのも構わず、首の稼動限界まで上を向いた。いくつかの滴が眦や瞳孔を狙う。反射的に瞬きを繰り返すが見上げる事は止めない。

願い続けていれば叶う、と。その言葉を実践するように。

暫くそうして見上げていても雲が晴れる気配も、滴が止まる気配さえ見られなかった。
もう一つ、溜め息。頭の重みで痛んだ首を擦りながら目を瞑った。
やはり現実は上手くいかない。
今度は首が痛くならない程度に雲を見る。相変わらず滴は暗闇から落ちてきている。
雲の上はどうなっているだろう。地上が晴れなくても二人は雲の上だから問題ないのだろうか。
もしかしたら雲が道になって、より川を渡りやすくしているかも知れない。雲の上を歩けるなら、だけれども。
きちんと会瀬に出向けただろうか。見えないというのは不便で、いつもはしない心配に頭が回る。
でも二人とも雲の上にいるのなら大丈夫だろう。同じ宙にいるならきっと。
それを少しだけ、羨ましく思う。

























































水平に持ち上げた腕を、相対する男の胸部に据える。
男との距離は大分縮められて、今は一足で詰められる分だけが横たわっている。だがこの距離から胸という大きな的を狙えば、どんな素人でも外す事はない。射撃を得手とせず、体格で劣る自分にとって有利な位置だった。震えもせず撃鉄を起こす。
それでも男は平然と立ったままでいる。最初から貼り付けている余裕、というにはやや鋭すぎる視線を細くして、好戦的な笑みを深くしている。
青い視線は銃口ではなく、対峙している俺から逸らされる事がない。その態度は、男が凶器を向けられる事に慣れた、軍人という人種である事を改めて感じさせるに足るものだった。

「撃たないのかね」

もう退路はないよ、と告げる口が、楽しそうに吊り上がる。
楽しむのか。この状況を。
どこか、嘗ての神と重なる相手に沸き上がった衝動を瞬時に掻き消して、構えたものを持ち直した。その拍子にカチャと内容物が入れ物に当たって音を立てた。

「撃っても構わないのだよ?それとも撃てないのかな?」
「黙れ」
「怖い怖い。ソレスタルビーイングは穏便という言葉を知らないようだ」
「黙れ、と言っている」
「そうカリカリする事もないだろう?もう少しカルシウムを摂るべきじゃないかな」

男の左足元。斜め後ろ。地面が爆ぜた。
サイレンサーが付いているので音はしない。加えて男も物音一つ立てなかった。
軍人という肩書を持つだけある。多少見直し、先ほどの状態を作る為、撃鉄に親指をかけた。
寸分違わず照準を合わせ終えて、静かになった男を見る。
その顔が純粋な笑みではなくなっていて面喰らう。どこかで見た事のある顔だ。何処でだったか、思い出せない。

「次は無い」
「…二度と、無いのかな?」
「?」
「生身で、こうして逢う事は、もうないのかな?」

何を言い出すのかと思えば、訊くまでもない。

「こうして貴様に逢った事事態が、俺の失態だ」

そうだろうね、と笑う。
その表情だ。どこか諦めた顔。以前見た覚えがあるのに思い出せない。この男とこうして対面するのはたった二度目だから、この男ではない誰か。
あの時は誰だったのだろう。
思考に渦が出来る。巻き込まれる。溺れる。始まりも終わりも消えて、あるのは続きが続いている渦だけ。
息ができない。そう思った瞬間、呼吸が戻ってきた。代わりに手にあった筈の武器はなく、両手首にも拘束を受けていた。
理を失った事を理解する。純粋な力比べでは勝ち目がない。
離れようともがいてもビクともしない。逆に手首を引かれ肩口に手を掛けられる。これ以上の接近を防ぐために、相手の同じような位置を掴んだ。

「私はこうして逢えた事を千載一遇の機会と思えど、青天の霹靂とは思わない」
「?」
「これは私の星に定められた運命なのだよ」

何を言っているのだ、この男は。
呆気に取られて反応が遅れた。更に距離が縮まり、男が屈んだ事で眼前に綺麗な顔がある。
その表情はやはりどこかで見た覚えがある。何かを、堪えているような。

「愛している」
「なっ…!」
「私はガンダムという存在に、否、君という存在に心奪われた男だ。この気持ちはまさしく愛なのだよ」

言葉の内容と連動しない表情に言葉を奪われた。
言っている内容は頭がどうにかなっているとしか思えない。だがそれを笑顔さえ消した表情に打ち消される。
理解できない。何を言っているのだ。何を言っているのか分かっているのか。
真剣のように研ぎ澄まされた眼は、陽の光を遮り蒼く淀んでいる。
可笑しな事もあるものだ。この色は似ている。あの緑に。
点が線になる感覚。
思い至った事実に狼狽して、衝動のままに目の前の顔めがけ思い切り頭突きを見舞った。拘束が一瞬緩む。振り解いて、落ちた武器を手に敗残兵の如く逃げ出した。
何か叫ぶ音が追ってくるも言葉として認識できない。振り返りもせずに走り続ける。
思い出した表情の主。わかってしまったその表情の意味。
こんなに遅くなってから得た答えを、振りきりたいが為に無我夢中で走った。






――――――――――
諦めた表情も堪える表情も、いなくなった男がよく浮かべていたものだ。
天使の翼を借りて、宙へと喪われた男。

これが答えなのか?これを抱えていたのか?
本人の答えは、もう永遠に得られないのに。

























































ハロウィンがしたい。そう言い出したのはツインテールを縦に巻いた少女だった。

整備士の娘だという今までにないタイプの少女は、再スタートした組織に温かみを齎した。常に笑顔を絶やさない事と明け透けな物言い。共にいる時間こそ短いが、それを感じさせる事なく彼女はその場に溶け込んだ。
本当に少女は明るかった。だから、ともすれば暗雲を上空に垂れ込めさせがちな俺たちが見栄を張るにはうってつけの存在だった。
何も知らない少女。その前で過去ばかりに囚われていられない。少女の明るさが伝播するように、誰かの暗さが少女に移るかもしれない。
そう思うと溜め息もおちおち吐いていられなかったが、それだけで俺たちは大分救われたのではないかと思う。





10月に入った所で少女から出た提案は、俺に馴染みのない行事に関するもので、何と反応したものか判断に迷った。知識としてしてその行事の事は知っていたが実際に行った事もなく、西洋のどこかの文化という認識程度しかない。

「何故?」
「10月のイベントって言ったらハロウィンですっ!お仕事ばかりで根つめてちゃ、いつか倒れちゃいますよ。だから、パーッと仮装パーティーでもしましょうよ!」
「必要性を感じないが…」
「必要おおありですよ!………だって皆さん、ストラトスさんが来てから暗いじゃないですか…」
「………」

だから元気づけたいのだと少女は言った。
笑顔で武装するものは悟いんだ。何故、忘れていたのだろう。
いなくなった男もそうだった。笑顔を振り撒いて心配かけないように心配ばかりして。最後の最期まで本心をひた隠しにしていた。
笑顔は優しすぎる。底にある真実を深く深く沈めてしまう。
今度こそ、見誤らない。
気を遣わせた事に対する謝罪と、それでも笑顔で見逃してくれていた事に対する感謝をこめて、大分下の方にある頭を撫でた。

「分かった。だが俺はハロウィンがどんなものであるか知らない。ティエリアにも言っておくから、必要なものがあったら頼むと良い」
「…!ありがとです、セイエイさん!」

嬉しそうに満面の笑顔を浮かべた少女に、同じように笑顔を返せたら良かったのだが、馴れない事に固まった筋肉が引きつっただけで終わってしまった。





当日。
衣装だと言って差し出されて初めて、俺はハロウィンというイベントが今日なのだと知った。
手渡されたのは灰色の毛皮。よくよく見ると耳と尻尾に似ている。
分かるようで分からない衣装の真意を問うために視線をあげ、簡単にこれは、とだけ訊ねる。

「狼男なのです!」

そうか。
満面の笑みで返されてしまえば反論の余地もなく、押し黙るしかない。予想通りといえばそうなのだがどこか釈然としなかった。
少女曰く、狼はリーダーなのだそうだ。家族の絆を第一にし、縄張りを荒らすものに力だけでなく知略でもって対抗する。
ピッタリなのです、と満足そうに綻ばせた笑顔が、着替えるからと断って自室に戻った今も思い出される。
孤高だと言われがちな狼をそのように捉えている少女にも驚いたが、それを俺に当て嵌めてくるとは思わなかった。
考える所も間々あったが、それでも胸の内は温かくなった。ただ、温かさで綻んだ筈の表情はやはりあまりに使わなかった所為で、歪む程度しか動かなかった。

「着替え、終わったか〜?」
「ロックオン」

ノックもなく入って来るな、と視線で咎めれば良いじゃん減るもんじゃないし、と大袈裟に肩を竦めて見せてきた。それに鍵かけない方が悪い、と言われてしまえば反論は出来ない。確かにそうだ。だが釈然としない。じろり、と恨みがましい一瞥をくれてやる。
不作法者から視線を逸らし、衣装を着こんだ鏡の中の自分。それを睨み付ける。
懐かしさを引き寄せるボロボロのくすんだ外套に、黒髪に合わせると浮いて見える灰色の耳。同じ色の尻尾は都合の良い事に外套で見えないが、耳だけが圧倒的な存在感で異様さを醸し出していた。

「似合ってんじゃん」
「…どこが」
「あー、と、耳?刹那って何処と無く猫とか犬みたいだし」

人間ではないと言いたいのか。
良く分からないフォローをし始めた男の言葉を聞き流して鏡を見つめる。
違和感の拭えない、見覚えのある顔の狼男の後ろには、黒く長い外套の男が映り込んでいる。引き摺るギリギリの長さのそれは体をスッポリと隠していて、全体的にレトロな雰囲気であるという事くらいしかわからない。

「アンタのは?」
「俺の?良いだろ〜ヴァンパイア様だぜ」
「ヴァンパイア…」

良いだろうと言われても外套しか見えないのだから、どこをどう羨ましがれば良いのか。
旅をしている間に各地で耳にした吸血鬼の伝承が思い出される。世界的にポピュラーな物語らしく何処へ行っても似た話はあったが、発祥は西側の国だそうだ。なんでも小説が元になっている架空の生き物で、その所為か鏡に写らないだのニンニクや十字架が苦手だのと言われていたり、逆に苦手なものがなかったりと設定が曖昧だ。その中で共通している事と言えば、人の血を吸う事くらいだろう。

鏡に写った姿を見つめる。
鏡に映った黒ずくめの長身。
吸血鬼が鏡に映っている。
吸血鬼は鏡に映らない筈なのではなかったのか。じゃあこれは誰だ。鏡に写っているのは。写らないのではないのか。

じゃあこれは映っているのではなく。
鏡の中にいるのは誰だ。
同じ顔をした男。
シンメトリーを描く男。
すう、と指先だけで輪郭をなぞる。
それは硬質で滑らかで。
冷たかった。






――――――――――
「…刹那?」
「何でもない。行くぞ。そういえば、その外套の中はどうなってるんだ」
「ふふ、ヒミツー!」

























































「で?これはどういう事だ?」
「だから、誕生日プレゼントだと言っているだろう」

何度も言わせるな、と紫の髪を翻し睨み付けてくる青年を見返して、相変わらず理不尽だと思う。
隣に立つオレンジ色の制服を着た青年も少なからず同じ思いを抱いているようで、助けを求めるように向けた視線に困惑を半分くらい混ぜた苦笑を返された。助けてくれる者がいないので、仕方なく手渡されたそれに視線を落とす。
それは端末だった。見間違う事なく俺の端末だった。
新しいものを支給されたのならまだわかる。だがそれは、朝、目の前におわす教官殿が寄越せと言って持っていった、あちこち塗装の剥げた俺の端末だった。
宇宙にいる事も多いし、何故か敵さんに居場所を悟られる現状を考えると、例え誕生日と言えど大層なものは望めない。その前に望むべくもない。だが、これが誕生日プレゼント?もともと持っていた物がプレゼントとなりえるのか?

「何をしている。プレゼントは中身の方だ」

ですよね。うん、もっと早く言って!
端末を立ち上げてみると、明るくなったデスクトップに、分かりやすくフォルダが一つ追加されていた。それを開く。ずらっと並んだファイル名の中の一番上のデータを選ぶ。幾分もしないうちに、画面いっぱいの表が展開した。何故、表なんだ。
小さい文字の羅列を見ていると頭が痛くなる。まさか老眼?いやいやそれは狙撃手として致命傷だろう。大丈夫だ。うん。命中率が落ちていない俺はまだいける。
端末を放り投げたくなったが、プレゼントと評して持ってきた本人がいる手前、何かしらのリアクションを取らねばならないだろう。
考えてる事が、芸人みたいだ。
遠ざかろうとする意識を願望に逆らいつなぎ止めて、表に目を凝らす。何かの成績の様だ。これは、まさか。

「それは貴方がいままでしてきたシュミレーションの集計結果です」

ひょいと画面を覗き込んでいた青年が解説する。
道理で見た事ある筈だ。と、いうかいつの間に。ここでは個人情報は保護されないのか。
だったら、他のはフォルダは。

「その結果を踏まえた上で、スメラギ・李・ノリエガが貴方にあった戦術と戦闘シュミレーションプランを立ててくれました」

貴方にはまだまだ学んでもらわなければならない事が沢山あるのですから。
そう締めくくった青年がさも当然のように、ありがたいだろう、と言わんばかりの態度を示している。頭を抱えたくなった。
誕生日ですら訓練か。休みはないのか。何か、こう、労わるとか。ないのか。ないな。望むだけ無駄か。だが、誰の発案だ。いや、何だか見当はつく。

「これを考えたのって、もしかして刹那?」
「ああ。なんだ、刹那から聞いていたのか?」
「いや…」

端末を眺めてはあ、と溜息をついた。
こんなものでも、礼は、言っておかなければならない、の、だろう。不本意だ。まぁ、貰えるものは貰っておく、が。

「サンキュ。明日にでもやってみるわ」
「当然です」

こんなありがたみの湧かない誕生日プレゼントも久しぶりだ。エイミーのくれた、リアルで大きなピエロの人形以来な気がする。
まあ、仕方ない。実践で使えるものなのだし、ありがたくもらっておくとしよう。






――――――――――
「…そういえば、お前さんは何を貰ったんだ?」

一緒に歩いていたオレンジ色の制服の男に尋ねる。誕生日が近いという事でプレゼントを俺の隣で貰っていた。自分のプレゼントのシュールさに目を奪われて、気にも留めていなかった。
え、と表情を強張らせて、次いで宙を泳ぐ視線。それに何となく似たものを感じて、興味がわいて問い詰める。
観念したようにほほを染めながら、足先に視線を固定してぽそりと呟く言葉を聞いた。

「………鉄アレイ」

ぽん、と肩に手を置いた。

























































ふいん、と何かが通るような音が聞こえたような気がする。
何かが通りすぎたような、起動したような音。もう一度、と確かめる為に耳を澄ませるが、耳鳴りにも似たそれは微かな余韻だけになって跡形もなく空気に溶けてしまうのだ。
初めに耳にしたのは愛機の聲が聴こえるようになった頃だろうか。不意にくる一度だけの機会を、もう何度も逃してしまっている。





また、だ。また、通り過ぎた。
いつからか聞こえるようになった音が、丁度今、通過していった。
また捉えられなかった。
毎回気を抜いている時に限ってその音は聞こえ、存在だけを知らしめて、逃げていくように意識をすり抜ける。それでも以前より距離も頻度も上がっているから、もうすぐ捉えられそうな、そんな気がしている。
そこに続けざま、似たような高音が聴こえてきた。
今度は長い。もしかして、と名前を口にしてみる。

「ティエリア?」

音が質を変え、質量を持った。その場を包み、風景を変えないまま独特の空間を形成する。
視認出来なくとも、脳が映像を結んだ。

「君が地上に降りたと聞いて追ってきたのだが… 邪魔したな」
「いいや、…感謝する」

遠慮がちに発せられた言葉に苦笑を返し、目の前にある白い石をなぞる。
月と繋がったという事は、この場所が持つ意味を理解しているのだろう。音の塊である青年は石を避け、視線を緑が広がる地面へ逃がしている。
この下には何もない。それくらい、わかっている。それでも探さずにはいられなかった。それだけの意味を、この場所は持っている。
何より家族を中心に据えていた男だ。だから、宙からでもここに戻ってきていると思った。体が漂っていたとしても、心はここに。
だから、探して、探して、見つけ出したんだ。
目で、刻まれた文字を追う。一番下に付け足された名前。現在の狙撃手が足したものだろう。呼び慣れたものではなかったけれど、感慨深く綴りに倣う。
さわり、と風に促され草同士が囁き合う。懐の深い緑に囲まれて建つ、円と十字を組み合わせたこの国独自の白い石が、綺麗に背景から浮き出して見える。
この場所は原点だ。罪と罰と許しと決意の再出発地点。
だからこそ、忘れない為にも何度だって足を運ばなくては。理由は違えど生前の彼がそうだったように。現在の狙撃手がそうあるように。
そう、言い聞かせる。この胸が、ギシ、と軋んでも。ただ。

「時折、押し潰されそうになるから、二人で向かえるのは気が楽なんだ」

罪を罪と解っていながら、犯し続ける俺は許されない。こんな悲鳴を上げる事も、この場所に立つ事さえ、きっと許されない。
苦しいやら可笑しいやらで、クス、と笑ってしまった。
何故俺は間違い続けるのだろう。変わったと思ったのに、何も変わっていない。
どうしても、触れられなくなってからしか許しを請えない。罰してほしいと願っているのに。手を伸ばせない。

「僕は、君がいてくれた事に感謝している」

不意を突かれた言葉に青年を見る。何の脈絡もなかったのに、それは沈み込みそうになった思考の矛先を曲げるには十分なものでぎくりとした。

「何、を」
「誕生日、おめでとう」

目を見開いた。
再び活動に参加するまでの4年間は、誕生日を忘れるには十分すぎる時間だった。
ぼんやりと青年を見つめ、苦く唇を引く。

「そう言ってくるのはお前くらいだ」

生まれた事を祝ってくれる。そんな事をするのは手のひらから溢れ落ちてしまった人たちばかりだ。
罪の分だけ否定されて当然の命。望まれないもののはずだ。

「過小評価だな」

即座に否定が下り、美しい顔がしかめられた。
自分の理解を否定する存在を、容赦なく断罪する表情は、以前よく向けられたものに近い。

「君がそうやって自分を過小評価する事は、僕が君を想う気持ちをも過小評価するという事だ」

はっ、とした。
俯き、項垂れる。

「…… すまない」
「そうじゃない。刹那、こういう時は謝るのではなくて、」

刹那、こういう時は。
男の声が響く。以前は喉でつっかかっていた言葉が、するりと溢れだした。

「…………ありがとう」

青年が満足げに微笑んでくれる。これで合っていたのだと気づいて、安堵した。
まだ、みっともなくこの場所にすがりついても良いだろうか。皆が心の底で望むなら、朽ち果てるまで戦っても良いんだ。
ふわりと緩やかな風が吹く。なんだか、許されているような気がした。
またこの場所を、原点にして良いだろうか。
青年の笑顔が僅かばかり深くなる。対する俺も、ぎこちなく笑顔を作っている事に気付いた。






――――――――――
丘を下っていく背中を未だ笑顔で見つめる青年が、何もない空間へと声を投げた。

「また、声をかけたのでしょう?貴方に気付くのも時間の問題なんじゃないですか?」

そんなに心配なら、きちんと助けてやれば良いのに。
そう、思っても実行しないと分かっている言葉を呑み込んだ。
クスクス。笑い声が重なる。
緩く緩く、眦が溶けた。

「良いんだよ。気付いたら改めて、ただいま、って言ってやるんだからさ」

ちらりと向けられる視線。弧を描くそれはどこか楽しそうで。
分かっていて教えてやらないなんて、大概お前も意地悪だな、と悪戯の共犯者は青年へと囁く。
対して青年は溜め息を吐き出して。

「自分で気付けた方が、より嬉しいでしょう?それに、」

力が上がっているから、きっともうすぐ。




























































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