陽炎の影
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01 02 03 04 /<了>
重力の基
/ 01 02 03 / 04 05 06 07 /<了>
一方通行の解消法
/ 01 02 03 04 /<了>























































































ロックオンが隠しているものの話。刹那の過去捏造。
時間軸は一期。







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最年長のガンダムマイスターは高度な技術を持つ狙撃手だ。
狙撃手という職業を詳しく知っている訳ではないが、動体視力や正確な予測、加えて忍耐力が必要である事、など様々な要素を必要とする仕事だと聞き及んでいる。
また、狙撃手も勿論の事だが、そういった仕事は体が資本。丈夫である以上に、管理をきちんと行わなければ健康は保てない。
それを、よく理解している男であるから健康管理も万全。俺が知るここ二年間は風邪さえひいていない。男のそういった、磨き上げられたプロ意識は、尊敬に値するものだと認めざるを得なかった。非常に悔しい所であるが。
しかし、だからといって自分の方法をを他人にも押し付けるのはどうかと思うのだが、風邪をひく事が本末転倒なのは俺にも当て嵌まる事実なので強く拒絶も出来ない。そうしてずるずると許容範囲を広げられている気が、ひしひしとする。
男が手に常にしている手袋も、健康の維持のためのものなのだろうか。外した所を見た事がない。
狙撃手というのはトリガーを引くその手を殊更大切にする人種なのかもしれない。
そう随分前に結論付けてあった筈なのに、思い出しただけで湧き上がってきた嫌悪感。それを押さえつける為に考える事を止めた。

甲斐甲斐しく他者の世話を焼く苦労を喜んで引き受ける男。そこに小さな引っ掛かりを覚える。
偽善的な犠牲者気質。見返りを求めない、数々の行為。それもあるが、それだけではない何か。どこか懐かしい感じのする、何かだ。
だが、違和感だらけでどれが原因か特定できない。凝らしている筈の眼にも、綻びは映らない。
それがまた不快感を齎していた。気付いている事なのに意思だけが抗っているような不快感だ。


総じて、この男との接触は不愉快だ。











今日も潜伏先に帰ってみると、フワリと数種類の食べ物が入り混じった匂い。
自分以外の人間が入り込んでいる確かな証拠が玄関を開けた途端に漂い出て、溜め息を吐かずにはいられなかった。

「いい加減戻ったらどうだ」
「刹那、帰ってきたら“ただいま”だろ」

悪意を持たせた筈の言葉が通じない。それが日常になりつつあった。
男が鈍感な訳ではない。寧ろマイスターの中で一番言語処理能力に長けている。
それでも伝わらないのは、厭味も褒め言葉も一緒くたに受け流してしまうからだ。この男にとって言葉は風でしかない。
人種が違うとこうまで変わるものなのか、と納得しようとした事もある。しかしその認識は、おたまから直接味見をしているそこの男と、同郷の他者に失礼だと思い直し、改めた。
要はこの男が特別可笑しいのだ。

溜息と共に飲み込みそうになった言葉を、辛うじて口の中に残す。
通じない者に対する小言ほど徒労感を抱くものもないのだが、言わずにいる方が精神衛生上良くないらしい。内に留めてしまいやすいとの診断を受けてから、この男に関してのみ思った事をそのまま口にするように心掛けている。何せ暢気にスープをよそっている男への不満が一番多いのだから。
男が全てを受け流してしまう性格だからこそ、いつもは飲み込む言葉も吐き出せる気安さが存在する事も否定はしない。そこは感謝すべきなのだろうが、多少の真剣さは持つべきでは、と進言したい。
提案するのはこの次の機会にするとしよう。打たれ強さを試すように、これ見よがしに呆れを含ませた目を細めた。

「昨日俺が言った事を覚えているか」
「どれ?」
「“もう後見役は必要ない”と言った筈だ」

手を止めてこちらを不思議そうに見ていた男が、今思い出したと口角を上げて、代わりに目尻を下げた。

「でもお前一人だとジャンクフードばっか食べてるだろ?却下だな」
「では料理を作って食べれば良いのか」

言葉の挙げ足を取った。目の前の男がよく使う手をなぞる。
この切り返しは予想していなかった様で、瞠目した表情と相対する事になった。
何でもさらりと流す男にしては珍しく、一瞬だけ表情が消える。それにこちらも驚いて、まじまじと見詰めた。
しかし、一瞬の空白を錯覚だったと思わせる素早さで、面を笑みへ貼り替えて顎を手で撫でた。
意地の悪い笑み。試すようなその表情に、眉を顰めた。
最良の一手に思い至った顔。あまり良くない事が起こる予兆だ。この顔をした後は上手く言い切られてしまう。

「じゃあ美味く出来るまで、俺が見てやんないとな」
「結構だ」
「まぁそんな遠慮すんなって」
「必要ない」

それからの押し問答は予想通り男の勝利に終わった。口数で勝る男に、否定を返し続ける程の語彙を持ち合わせていないのに加え、会話を続ける行為自体に辟易して、沈黙を選んだのが大きな敗因だろう。沈黙は良い様に取られてしまう。だが、同じ事を何度も話すのは疲れるのだ。
あの男はどうしても構いたいらしい。不本意ながら、俺には黙認するしか道は残されていないようだ。






  












































なみなみと注いだ豆のスープを無言で食べる姿に安堵して、自分の口にも運ぶ。トマトベースのスープは少々酸味が効きすぎていて、意図せず目が瞬いた。

「少し酸っぱすぎたか?」
「いや」

短い否定。しかし、これで喜んではいけない。
クレームについて否定したからといって、それが少年の口に合うものであるとは限らない。否定の反対は肯定ではないのだ。
少年が、楽しむ意味での味覚を持ち合わせていないのは経験からよく知っている。
曰く、嗜好的味覚は「不要なもの」だそうだ。食物の摂取は、体調の維持と管理の面で必要だからこなしているという。
体を保てる程度に栄養を摂取できるなら、味がついていようとなかろうと関係ないという事らしい。その場合、食物としての機能だけが重視されるので、嗜好は常にヒエラルキーの底辺。またはそれ以下の番外。だから、ジャンクフードでも手料理でも、役割を果たすなら特に問題ない、と。何とも作り甲斐がない。
いや、その前に問題大有りだ。
本人は食べられれば良いかもしれないが、ジャンクフードを食べ続ける事が、体に良くない影響を及ぼすのは目に見えている。それは、そういった食べ物が持つ特性の問題であって、若いからといって何とかなるものではない。
食べ物が体を構成するのだから、良い素材を用いるのは必要なのではないか。そうでなければ、少年が唯一食事においてウェイトを置く、体の維持もままならない。
取り敢えず、少年が食べているなら良い。基本的に好き嫌いはないようだし、出されたものは食べる。今回はそれで良しとしておこう。

料理に対する評価が無いのは常だが、食べ続ける姿は些か性急で、食事を口に運ぶ人物の空腹度合を如実に伝えている。
去来する嫌な予測。こういうもの程よく当たるのだ。
否定してほしい、との願いを込めながら口を開く。

「今日は何か食べたのか?」
「………」

食べる手は止まらない。沈黙も止まない。
いくら少年が寡黙だからといって、呼び掛けた方に目も向けないのは明らかに可笑しかった。
少年だってそれを分かっている筈なのに、無駄な芝居を止めようとしない。

「刹那」
「………」
「………」

名前を呼んだ声は意図せず非難の響きを秘めて口から放られ、メインディッシュを取り分ける少年に静かに当たった。
言葉を拾う者のいない沈黙は、忍耐の出番だ。
問いかけを重ねる行為は質問者としての義務は果たせても、探求者としとの責務を全う出来ないのだ。
幾重にもなった問いは始めの問いを時間経過によって薄めてしまい、一つ一つの重要性をぼやけさせてしまう。それは黙秘権の行使を容易にする。黙秘でかわされてしまうのは困るのだ。
辛抱強く待っていると、取り分けたジャガイモのグラタンをつつくフォークが止まった。

「昼からプログラムを組んでいた」
「朝は?」
「起きるのが遅かった」
「じゃあ、俺が来る前に外に出てたのは何しに行ってたの?」
「新聞を買いに」
「それだけ?結構時間かかってたみたいだけど」
「この近くには店がない」
「………。……店のある所まで行ったんなら、ついでに何か食べてこいよ…」

溜め息が出た。
明らかになった全貌は、少年の生活を危惧するには十分なものだった。よくこれで許可が下りたな。
また食事を再開した少年は、ほんの数分前に後見役はいらないと言ったばかりではなかっただろうか。もう自分の面倒は自分で見られると。他者の手を借りずとも自分の管理くらい出来ると。
あれはそういう意味だと思っていたのだが思い違いだろうか。
頬杖をついて内心を呆れで隠した目を向ける。本当にこの少年は期待を裏切らない。

「そんな生活してるヤツ、一人になんか出来ねぇなぁ」
「気にしなければ良い」
「そうしたいのはヤマヤマなんだけどなー」

頭の後ろで手を組んで伸びをしながら嘯く。
気にしない。その尤もな提案は以前より何度も試みている。そしてその都度感情の妨害に合って、取り繕う事もままならなかったものだった。
いつもの様に表情だけで誤魔化せる種類のものだったら良かったのに。
今だってきちんと仮面を被れているかどうか。少年が付け入る隙を見せる度に、内側にあるものを抑える箍が外れそうで仕方がない。

内面を濁した言葉の水面。そこに映り込んだ姿が歪んで、少年がピタリと動きを止めた。
ギクリと。錆び付く。
見詰めた目は瞬きも少なく、いつも以上に感情がない。水面下が濁って見透せない。
何故、という問いはこちらから齎されるより先に、少年から鋭く提示された。

「何故、構う。上からの命令か?」
「なに?」
「何を期待している。期待されるようなものを俺は持っていない」
「ちょっと、待って、それ、どういう、」

ぱしん、と乾いた音が一つ弾けた。

「俺に触れるな!」

久方ぶりに耳を打つ明確で明快な拒絶。剥き出しの嫌悪。声が少しだけ震えているのはどうしてだろう。
慣れた筈のそれは、しかし赤く濁った眼を見た瞬間、渾身の一撃としての威力を発揮した。
形ばかりではない本気のそれは、強大な力を持っていて。
遺憾なく、容赦なく、間断なく。
言葉も、表情も、動作も、全て。
晒されたその全てを、赤く赤く濁った水面に沈めた。






    












































誰かの言葉がこんなに痛いのは久し振りだった。
長らくなかった感覚は、以前だって決して良いものとは思っていなかったのに、比較にならないほどの強さでやってきた。
もう、よくわからない。
あまりにバラバラになってしまったパーツを繋ぎ合わせるのには、まず離脱してしまった理性を取り戻さなければならなくて、こうして戻ってくるまでに時間がかかった。
気が付けばミッションは恙無く終了し、何を狙い撃っていたかさえ思い出せない有り様。今も、どの道筋で自室に戻ってきたのか、朧気にも記憶にない。
仕事の精度に変化が出なかったのは、プロとして褒められる事かもしれない。しかしそれは人としての道を踏み外したまま、順調に、確実に、戻れない道を歩んでいる事の証明でもあった。そんな自分がいっそ滑稽で、笑う事で正気を引き留めようとした。
確かに、こんな俺じゃあ。

全てを揺らす、言葉を、視線を、投げてきた少年。
常に言葉が足りなくて、それを赤い視線で補う黒髪の少年。
何を言われた訳でもない。言った訳でもなかった筈だ。でも何かが少年の琴線に触れて、あの態度があるのだろう。
何度思い返しても原因に検討がつかない。と、いう事は、行動の裏には俺の知らない少年の過去が絡んだ思考回路があるに違いない。
それなら耐えられた。ただの理不尽だから。それが最初から分かっていれば、怒りこそ覚えても、こんな風にはならなかっただろう。
でも冷静な思考さえ奪われるくらい、動揺していたんだ。
耐えられなかったのは、拒絶。単純な動作と視線から成る、わかりやすい拒絶。
ただ、それだけ。それだけだ。
それなのに、こんなに衝撃を受けて。





拒絶されただけ。
それがこんなにも重い。





胸が痛い。喉が痛い。
唾がそれこそ固唾となって、飲み込む事さえ一苦労だ。
少しは少年に許してもらえている気でいた。最も嫌がっている接近を許してもらえる程に。
しかし今日表されたのは本気の拒絶。
何かしただろうか。いつもと違う何かを。少年の琴線に引っかかる何かを。思いつかない。働かない頭に苛々する。
きっと、油断していた。許してもらえていると思って、気が弛んでいた。少年の中にある闇は変わらず存在している事を忘れていた。踏み込み過ぎたのだ。
笑ってしまう。また考えがループしている。答えの出ない袋小路だ。袋小路に入って来たのだから入口はある筈なのに、それにも思い至らる事が出来なくて、ずっと同じ場所を回っている。


ああ、笑ってしまう。何て事だ。
こんなに自分は脆かったのだろうか。それとも。
それともあの少年だから。
あの少年、だから。


8つも年下の子どもに、こんなにも入れ込んでいる。それを今更ながら傷の大きさで悟った。
たかが子どもだ。子ども相手に何をやっているのか。
何て、何て。そんな事もう言える訳ない。
ああもう、言葉にもならない。
取り敢えず、俺はあの少年に傾倒している。この揺るがない事実だけは、今、再認識した。
だってあの時から息が苦しいんだ。誰か、手を貸してくれ。








あの状況を冗談で済ませられなかったばっかりに、今の関係は最悪だ。それだけは何とかしたい。
結局、何度も頭を流れ続けるあの場面を観続けても、俺のどこに非があったのか見出せない。二度と同じ轍を踏まないようにする為にも、理由を明かしたい。
原因があり、動機があり、結果がある。それが論理的思考。
論理的。なんて、今の状況では笑ってしまうほど無力だ。だってそれ以前に、この状況にこれ以上耐えられる自信が無いだけだ。



でも、ああ、大丈夫。これ以上なんてない。もう、十分、胸が痛い。






    












































薄い扉がコツコツと音を立てたのは、そろそろ睡眠を取らねばならないと考えていた始めた時刻だった。
宇宙には朝が無い。そういう事もあり、ソレスタルビーイングという組織自体が、グリニッジ標準時間を軸に行動する事になっている。
今は22時も半を回った頃合いで、非常識な訪問と咎める時間だ。ただ昼間の事がある。
一つ息をつく。控え目に響いた音に、随分時間がかかったものだと感想を持った。
扉の向こうにいるのは恐らくあの男。人形のような顔をして、ミッションをこなしたあの男だろう。
その予想を肯定する声が扉越しにかかる。

「刹那、起きてるか…?」

返事をしないままでいると、二度目の呼びかけがあって、沈黙。それにも答えない。
今日は顔を見たくなかった。あの時、渦を巻いていた嫌悪感は薄れていたけれど、顔を見れば振り返しそうで敢えて返答を飲み込んだ。
このまま諦めてくれれば。
淡い期待はいつも無惨に打ち砕かれるのに、願いは泡の様に儚いまま勝手に生まれ、そしてやはりパチンと弾けた。
ものの数秒で唯一隔てるものとして立ち塞がっていた扉が、音もなく退場した。
現れた男の手にあるものを見て、顔を顰める。あのオレンジ色の球体。男が相棒と呼ぶA.I.だ。厄介な人物に厄介なものを持たせたものだ。
舌打ちしたい衝動を堪えて、侵入を果たした男と対峙する。

「返事くらい、しろよ」
「何の用だ」

声に非難と拒絶を含ませて眼を見据える。相手が少しばかり怯んだ。
それでもある程度覚悟してきたようで、ぐ、と口を引き結んで耐え忍ぶ。昼間のように乖離する事はなかった。

「昼間のアレ、どういう意味?俺、何かした?」
「言葉の通りだ。俺に構うな。付き纏われるのは不快だ」
「…っ、」

この話は終わりだ。そういう意味を込めて視線を外し、立ち上がる。
もう聞くな。意味なんてない。ただ、苛々した。それだけだ。

「待てよ、刹那!」
「俺に触れるな!」

振り払おうと捻った腕をそれ以上の力で掴まれ、逆に身動きが取れなくなった。
今度こそ舌打ちする。
体格での不利がこんな所にも影響を及ぼす。それが何よりも苛立ちを加速させる。不快。不快だ。それに、気持ち悪い。
眼を眇めて頭一つ分高い位置にある目を睥睨する。
躊躇いの色が消え、本来の深さが戻った湖の底に引き込まれそうになって、眉間に力を込める事で何とか沿岸で踏み留まった。
どうしてそんな目をする。怒鳴りそうになるのを押し留めて、収縮した光彩が黒く光るのを見る。
湖には有り得ないような深みが見え隠れする。痛みが広がる黒。どうして。
どうしてそんな目をする。どうして、どうして。どうしてあんたが。
その目も、その行動も、その立ち位置にいるものとは真逆じゃないか。
分らない。不快だ。

「俺に何を期待する。俺はもう何も持っていない!」
「だから、何でそうなるんだよ!何で急に、」
「その格好をしていてよく言える!」
「格好?」

力が抜けた一瞬を見逃さず振り払う。ただ、逃げようという意思を見せなかったからか手は追ってこなかった。
その代わり更なる説明の請求を視線から感じて、それを避けて床の一点を見詰めた。

「神の名を騙る預言者が。これ以上俺に何を望む」

俺の手にあるものなんて何もない。
銃もナイフもそれを操る手も組織の理念に捧げてしまった。
俺にはもう、ガンダムへの信頼しかないのに。

ノイズ混じりの砂の記憶が再生される。瓦礫の街。死臭だらけの道。
そこに現れる、子どもを統べる赤い預言者は、いつも手袋をしていた。
服も食べ物も飲み水も武器も貴重で、でもその男だけはいつも清潔で血色が良くて、上に立つ者の目をしていた。神の言葉を下ろし、導くものだった。
その男は手袋をしていた。
食べ物は俺たちよりも美味しいものを食べているようで、いつも美味しそうな匂いがしていた。俺たちには一週間の始めに缶詰の乾パンが配られて、量を考えながら食べなければならなかった。隣の奴がちまちま食べていると、いつも演習で一番になる奴がやってきて取り上げていった。だからもっと早く食べれば良いのに。そんな事をしていると余計服が汚れるんだ。新しい服がほしい。きれいで血の染みが無いやつだ。俺たちの服は血がこびりついていてごわごわする。早く新しいのを調達しなければ寝辛くて仕方がない。北の方に餓死した死体が沢山あると聞いたから、今度はそこで戦闘になれば良い。でもきちんと武器を貰えるか不安だ。銃器は重いけど、遠くから人を狙える分とても効率が良いんだ。ナイフは使いやすいけど、近くに寄らないと当たらないし、刺さったら抜けない。血もベッタリつくから服がすぐ使い物にならなくなるんだ。銃もそうだけど、ナイフだって何本もくれる訳ないから、いつも拾って持って帰ってくるやつを、またこっそり持って行った方が生き残れるかな。
神様は手袋をしている。
その手が頭をなでてわらう。
そしてめいれいするんだ。




ぱさ。
別の世界からの音がノイズを遮断した。
別の世界。違う。ここが俺の世界だ。
唐突に視界を横切った黒い物体。それが何かを確かめる前に、振り払った筈の腕が締め付けられるのを感じ、反射的に腕を払おうとして目を向けた。
目の前の男に掴まれている。しかしその手にいつも嵌められている手袋はなかった。男を見上げる。

「何を言ってんのかイマイチ飲み込めねぇけど、この格好が嫌なら替えるよ」

そう言ってベストを脱ぎ、掴む腕を交換して手袋と同様に床に落とした。
困惑した。この男の行動はかつての預言者のものから逸脱している。
預言者は俺たちの前では手袋を決して外さなかった。進んで触れようとした事もない。
じゃあ、あんたは預言者ではないのか。俺たちに命令していたあいつとは違うのか。命令を実行する事だけを期待して、手袋越しに触れてきたあいつとは違う?

現れた手を見る。
この男の手袋には本来の意味を持たせてあった。手を覆うという、本来の意味。
現れた掌が、赤い。
いくら血管の透けやすい白色人種だからと言っても、それはあまりに赤く。そして、その赤が異常であるときちんと認識できるように、斑模様を描いていた。
赤い斑に覆われた皮膚。膿む程ではないものの爛れかけたそれ。意識しなくても目を引く光景。
それから目を離せないでいると、小さく息を吐く音が頭の上で聞こえた。それに次いで、ぎしりと腕が鳴る。
掴まれた腕が痛い。いつの間にか段々と強くなった拘束で、上手く血が通わなくなってきているからだ。
一度熱を持った手は、痺れが広がると共に次第に冷たくなっている。ただ、それよりも握りしめる側の青年の掌が汗ばんで冷えきっているのを感じた。
緊張、恐怖。この部屋は暑くないのだから、汗が出る条件などそのくらいだ。どれもこの場で男が感じるものではない筈の感情だろう。可笑しな奴だ。
小刻みな震えはどちらのものなのだろうと、俯いて表情の覗えない男をぼんやりと眺めた。
長い髪に半分以上隠れた顔は口元しか見えない。それが不自然に歪む。

「気持ち悪い、だろ。でも…、嫌なら、全部取り替えるから、さ。だから、」

最後の方は何を言っているか聞き取れなかった。
ただ何度も何度も懇願している。懇願しながら、まだ服を脱ごうとするから、拘束を免れた方の手を服を掴んだ手に添える事で、止めるよう意志を伝えた。
意図は組んでもらえたようで、服にかかっていた手はだらんと力なく垂れ、こちらを窺うように視線が持ち上がった。泣く寸前のようにも見えて、何だか居心地が悪い。
無くなった手の力は、縋るように掴み直された腕に回されたようだ。赤い掌に絞められた指先は、色が悪くなり、痺れを通り越して感覚がなくなっている。
何をそんなに必死になっているのか分らない。手を離した途端、消えてなくなる訳でもないのに。
いつも年長ぶっているいる奴が、なんて情けない。子どもみたいだ。だが、真剣さだけは締め付けられた手のだるさで理解できた。

「気持ち悪くはない。俺の勘違いのようだ。すまない」

男はその手を気持ち悪いものと思って、晒さないようにしていただけのようだ。そういえば手袋にはそういう意味もある事を失念していた。
考えてみれば、この男が知っている筈がないのだ。どこかで預言者を目にしているなら別だが、あの戦場にいた経験など無いのだから。
それに気づくと申し訳ない事をしたな、と思った。勘違いで八つ当たってしまった。随分落ち込ませたようだし。
しかし。何が気持ち悪いのか分らない。戦場にいた事があるのなら、もっと酷い状態の人間だって目にしている筈だ。このくらい特に何とも思わないだろうに。
見上げている内に、呆然としていた表情が見る見るうちに明るくなった。
男の言葉に対する否定と謝罪をしただけだったと思うのだが。ただの謝罪にこれ程まで効力があるとは知らなかった。驚きだ。
それと同時に、手の力が安堵の現れのように緩められた。その途端に虫が這うような感触が手首から指先へと伝って、感覚が戻っていく。その不快に眉を顰めると、漸くあらん限りの力で手首を拘束していた事に思い至ってくれたようで、慌てた様子でようやく解放してくれた。
ごめんな、と謝罪を繰り返すのだが、締まりのない顔の謝罪は謝罪と思えない。苛々する謝罪もあるのだな、と先程の認識を即座に改めた。
しおらしいこの男の居心地の良いものではないが、喜色満面までいくと自身の発言が悔やまれる。苛々する。不愉快だ。

「じゃあさ、今度から違う服着てくるから、傍にいても良い?」
「服は替えなくても良いから近づかないでくれ」
「それは出来ない相談だ」

俺、刹那から離れられない体質だから。
そう言って手を繋いで来ようとする男を邪険に扱いながら、今度こそ寝る用意をしようと洗面所へと立つ。
すっかり元気になってしまったこの男も手に負えない。馴れ馴れしいだけの大型犬ならまだ良かったのに。
意外と扱いが難しい動物に懐かれてしまったと、溜息を吐いた。






  
















































地上に降りている時の話。マイスターだけどティエリアが出てこない。
時間軸は一期。微妙にパラレルチック。







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川が流れている。水位は低くて流れは緩やか。なので時間までもゆっくりと流れているような気になる。
水面は太陽光を反射してキラキラと輝いているが、そのすれすれを無数の虫が飛び交うのも反射光に紛れず目に映った。
上を見上げるまでもなく日差しは強く目を焼いて、土地の人は日傘や帽子を被り、手袋などの日焼け対策に抜かりがない。
そんな抵抗にあっても太陽というヤツはめげる事を知らず、アスファルトを暖めては熱気でその存在を主張している。太陽というやつは案外、マゾなのかもしれない、と詮無い事が沸いた頭を通り過ぎていく。
湿度も高めなお陰でム、とした暑さが全身を取り囲んで、まるで蒸し風呂のようだと思った。入ったことはないが。

「あっちぃな〜」

町の中を歩き始めた時点で季節感の無いファー付きベストは脱いだが、それでも歩いているだけでじわりと汗が浮かぶ。
ベストを持っている手だけが熱を持っていくのも耐えがたく、今すぐ放り投げてやりたい衝動を抑えるのに結構必死だったりする。
寒い場所で幼少時期を過ごしたこの身に、暑さに対応する機能はあまりついていない。それなのにこの茹だるような暑さ。独り言でも何でも、愚痴が出てくるのは仕方ないだろう。寧ろ愚痴を言うだけで衝動を抑えているのだから、褒められても良い筈だ。

「お前さん、よくこんな中で平然としてられるな」
「………」

長袖の白い服は襟まで立っていて、その襟を覆う形で赤いストールのような長い布を纏っている。更に紺の上着を着て歩いていたのだが、見ているこっちが暑くなる、と主張して脱がせた。脱ぐように言った時も渋々といった様子で、こちらが進言しなければ今も着ていただろう。容易に想像できる。
信じられん。どれだけ暑さに強いんだ。
どの発言も結局独り言となってしまったが悲しいかな、この少年とよく組まされる俺はそんな事にも馴れてしまったので落ち込む事もない。河川敷をペースを保ちながら歩く。

アスファルトと砂利の擦れる音。
側を自転車が通りすぎる音。
遠くの線路が軋む音。
打ち水の音。

こんなに暑くて汗は止めどなく流れるのに、耳を撫でる音は微かな冷気を伴って懐かしくすり抜ける。
一陣の風。
肩にかかる髪がさぁ、と後ろへ梳かれ、思わず立ち止まって振り向く。
急に立ち止まったからか、隣の少年も同様に足を止めて背後を見た。それでも声をかけてくる事はない。聞かれても説明できないから今回は都合が良かった。

「……なんでもないよ」

二歩で追い付いた頭にポンと手を置いて歩き出す。一拍遅れて少年も歩き出した。
やはり音は周囲にあるものだけで、少年から発される事はなかった。
そういえば以前、沈黙というのが怖かったのを思い出し小さく破顔した。何もない間を作りたくなくて、考える時間を自分にすら与えない様に話し続けていた。それが、こうなるなんて人生はわからない。
今は、無言は怖くない。言葉を介して理解を求めなくても、何を考えていても、場は共有できている。それだけで十分なんじゃないか。
そんな風に考えるようになったのも、この無口な少年の隣が苦痛ではなくなった頃からだろう。
小さな音に耳を傾けるのも悪くない。日陰に入れば影の中にもきちんと色があるように、耳を欹てれば様々なものが違った角度を見せるようになる。
さっきも。目に見えない人たちが大勢で通りすぎた気がしたんだ。

懐かしさが通り過ぎる。
故郷から遠く離れたこの地に。






  












































何度目かの訪問となる街の、初めて通る道を歩く。
道幅は狭く、車道と歩道を区切るのは一本の白線のみ。歩行者の為に設けられたスペースなど申し訳程度で、限界まで端に寄っても掌分しか離れていない場所を車が通りすぎて行く。しかも細く曲がりくねっている上、車通りも存外多いので気を付けなければならない。
美しく稜線を描く山が早々に夕日の介入を拒んだ為、早めに始まった夕暮れが空気まで朱色に染め上げ、一日を終えようとしている。赤と黒で描かれた世界は、文献でしか見かけない古めかしいもので、留められた時間の中に迷い込んだ自分を、場違いなものに感じた。
時折混ざる現代風の建物が一瞬だけ現実へと引き戻す。それを嗅覚と先を行く視覚が本来不可逆的である筈の時を繋ぐ。
五感の介在。そのお陰で時間の断絶は継続になる。植物が、動物が、人が、過去と今を繋ぐ。
そこかしこにバラバラと落ちている欠片を、ランダムに拾い集めて繋ぎ合わせる。ここは盆地だから熱と共に時間まで少しずつ溜まっていくのだろう。特にそういった欠片の多い街。
欠片になってしまう前の完成した形にはもう永遠に戻らないのだから、繋ぐ順序はあってないようなものだ。だから繋ぎ合わせて出来上がった空間は、感覚としてはかつてのものと似ていても、結局は新しく作られた贋作にすぎないのだろう。

首を巡らせた先。
右手に並ぶ家屋が途切れ、新たな曲がり角が出来ていた。更に細い道。もう車は通れない。
道には街灯も外灯もなく、山に削り取られた夕日さえも拒む。仄暗い奥は明るい所からでは見えない。
その闇。その中に。何か。
いや、そんな確かなものではない。何かいるような、そんな気がするだけだ。
ぼんやりとした存在感を持つ空気があの奥に澱んでいる。そんな確証の持てない直感めいたものが、あの吹き溜まりにある。

確認を。
でも足は動かない。恐怖も畏れも感じないのに、足だけが進む事を拒否している。戦場で竦んでしまったかのように。
ここは戦場ではないのに。何故、

「刹那?何やってんだ、そんなトコで」
「ロックオン…」

逆光でよく見えないが、見知ったシルエットが明るい方の曲がり角から伸びている。
急に空気が動き出し、時間も、雰囲気も、現実へと押し進められ空間が戻ってくる。
何事もなかったかのように。全て錯覚だったのだと錯覚させるように。知らん振りをしている。

「何かあるのか?ホテルはすぐそこだぞ」

訝しげな声がもう一度かかる。先にホテルに向かう様子がないから、追い付くのを待っているのだろう。

「何でもない。今行く」

後ろ髪引かれる思いで返事をして、もう一度だけ、と振り返ってみる。
そこにはやはり奥の見透せない、暗い路地があるだけだった。






    












































この街には任務の為に来たけれど、とても綺麗な街並みをしていて眺めているだけでも楽しく過ごせている。
屈指の観光名所であるというだけあって、この街を訪れる人は多い。それに比例してお店も多く軒を連ねているのだが、どこも閉まるのが早くて未だに片手で足りる数の店くらいしか回れていない。大分勿体無い事をしているような気がする。
プトレマイオスで待機している人達だって本当は来たかっただろう。オペレーターの女性は場所を聞いてからウズウズしていた。何でも化粧品の老舗があるらしくて、最近美容に良いドリンクが出た、とか。できればそれを買って行ってあげたいのだけど、中心街の方にお店があるらしく、予定から考えて行けるかどうか確信が持てなかった。お土産になるものを何かしら買ってから戻るつもりではいるのだけど。

「明日一日は何も入ってないから、明日こそ何か買いに行けるかな…」

結局、今日もご飯を食べに出ただけで終えてしまったから。
確かにご飯も美味しいのだけれど、ご飯は持って帰れない。それが本当に残念でならない。
お店が閉まると途端に賑やかさを失う通りが何だか寂しい。そんなひっそりとした道をわざわざ歩いているのは、もし明日も何か用事が入って買い物に専念出来なかった時に、近くどんな店があるか知っておく為だ。どこに何があるのかを知っておくだけで買い物がしやすくなる。時間も短縮できる筈。
毎度の食事もどこが美味しいのかわからなくて困るくらいで、ここ数日、事前のリサーチはしとおくものだという事を身を持って感じている、その結果だ。本来こういう事は人形みたいに顔が整った青年の得意分野なのだけれど、興味のない事には本当に無関心だから協力してもらえない。
なので日課となりつつあるリサーチを兼ねた散歩と相成る訳だ。
暗くなった道は少し不気味だ。何かがついてくる訳もないのに後ろを振り返り振り返り歩く。振り返る度に何もいなくてほっとして、でも今度は前に回ったんじゃないかと思ってまた振り返る。
店の閉まったこの時間でも、街の人はどこかに用事があるらしく歩いている人が多い。この行動は不振がられているだろうな、と思うけれど恐怖心には勝てなくて何度も繰り返してしまう。
暗闇は、嫌だ。やっぱり明るい内に来よう。進んでいた方向へ振り向く。その途中に暗がりがあった。

ぎしり。
行動が強制的に中止される。注視を強要されるその先。
何も映らない。奥にだって家屋がある筈なのに、目を凝らしても何も見えない。それが街灯に街が照らし出されるより以前から、人を恐怖させていたものだと理解する。

深淵の闇。

それがまだこの街には生き残っているのか。何もないのにあるように思える。ある筈のないものを見ようとする。魅入られる――

「アレルヤ・ハプティズム」
「……!」

驚いて声の出所を辿ると、闇に溶ける髪を持った同僚が案外近くにいて、また驚く。何故ここに?先にホテルへ向かった筈ではなかっただろうか?
疑問が顔に出たようには思えなかったけれど、思考が伝わったようなタイミングで無表情に若干の安堵を乗せた口が音を紡いだ。

「帰りが遅いから迎えにきた。案の定だ」
「…?案の定って何の事?」

すい、とこちらに向かう赤い目が細くなる。背筋を通った何かにぶるりと身震いした。
けれど、よく視線を追いかけてみると、焦点はずっと後ろの方にあるようだった。そこにあるのはあの闇。

「捕まらない方が良い」
「え?」
「戻るぞ」
「え?ええ?」

分かるような分からないような言葉だけで答えて、同僚の少年は踵を返してスタスタと歩き始める。が、思考が追い付かない。
捕まらない方が良い。何に?

「…!刹那、あれってもしかして…!」

今度こそ下がった血の気に置いて行かれる恐怖が加わり、一目散に少年の背中を追った。






    












































「あーあ、降って来やがった」

折角いつもと違う所に来たのだから、からりと晴れてくれたら良いのに。








朝から灰色の雲が垂れ込めていた空は刻一刻と悪化の一途を辿り、ざぁざぁと盛大に音を立てて降りだしてしまった。
確かに予報は雨だったが、ここ数日の炎天下を知っているだけに油断していた。古典的表現だが、こんなバケツをひっくり返したような土砂降りになるとは予想もしない。
これでは傘をさした所で足しになるかどうか。風が強くないので、横から降らないだけまだマシかもしれないが、それでも傘の範囲外である膝下が濡れるのは覚悟しなければならないだろう。全く、何て空気の読めていない空模様だ。
とりあえず外に出なければならない時刻までは、まだそれなりにある。それまでに晴れれば良い、と薄い期待を胸に暗い頭上を見上げた。

やはり帰る段になっても雨は降り止むどころか雷のオマケまでつけてくる始末だった。確かに雷なんて珍しいし綺麗だけど。何も今日じゃなくて良いんじゃないかと思うのは俺だけだろうか。
大きく息を吸い込んでその分大きく吐き出し。目を眇めてじとりと広がる雲を見やる。
空は一面ペッタリとムラもなく塗られ、何処を取っても申し分ないダークグレーだ。昼に見た時より確実に色が濃くなっているのは、日が落ちてきているからだと思う事にする。決して天気が悪化している訳ではない。そう思いたい。意外に近い所で雷が鳴っているのも、すぐに通り過ぎる筈だ。これ以上悪くなってたまるか。





持ち出しても良いと許可が出た傘を持って自動ドアの前に立った。
レトロな機械音をさせながら一拍遅れて扉が開く。と、同時に入り込んでくる熱気。もわんと凪いで動かない空気が、纏わりつくように肌を撫でた。
それでも昨日と比べると気温が下がっているのは、ジリジリと射す日差しと照り返しが遮られたからだ。直射日光と貯まっていく熱がないだけで大分違う。
そう考えると雨が有難いもののようにも思えるが、俺は騙されない。騙されてなんかやらない。例え気温が下がって過ごしやすくなったとしても、こうも降られては出歩けないではないか。折角予定を立てていたのに。
溜め息をついて振り払うように頭を左右に振った。
降ってしまったものは仕方ない。とりあえずホテルに戻らなければ。
バサッ、とつまみを押し傘を開く。
朝から降り続ける雨は既に排水処理能力を上回る勢いらしく、路上には水溜りとは到底呼べない水が薄く広がっている。靴が浸水するのは覚悟しなくてはならない。

「全く。天気には敵わないね」

幸いなのは宿泊しているホテルはすぐ近くにある事だろう。走れば被害を最小限に食い止められる。かもしれない。
よし。声に出して言う事で自分を奮い起たせて、雨と雷に飛び込んだ。






    












































結局傘は気休め程度にしかならず、10分程の距離を行くだけで靴は浸水、デニムは膝上まで張りついて色も暗いものへと変わってしまった。あまりに盛大に濡れてるのでいっそ笑えてくる。
ホテルの前に張り出している屋根の下についた時点で傘を振り下ろし、雨水を幾分か飛ばしてから畳んだ。風が強くないのは幸いだが、この調子なら潔く濡れて歩いた方が楽なのではないかという思いまで巡ってくる。
雷は昼頃にその紫の姿を見たきりだが、未だ存在を誇示する咆哮を轟かせている。落ちる確率は天文学的数値だが、万が一傘に落ちないとも限らない。と、予想できなくもない。それならば傘の方が危険である。と、言えなくもない。
こうして屁理屈を並べてみたが、突き詰めてしまえば濡れて歩く為の口実が欲しいだけだ。
昼間に雷が横切ったのを見た辺りからずっとウズウズしている。まるで嵐と共に騒ぎ出す子どもだ。
人知れず苦笑を浮かべて、エントランスへ続く階段を昇る。
振り返った空に、タイミング良く龍に似た閃光が走った。

フロントに行って鍵を貰ってからエレベーターを待つ。
段々と降りてくるエレベーターの光を追っていると、フロントのあるこの二階で点滅し、アナウンスの後に扉が開いた。

「刹那!」

姿を目に映すのと同時に名前を呼んでしまうのはもう条件反射だ。
咄嗟に発した声は、驚きと少しの喜色が滲んでしまったような気がする。

「もう、帰ってきてたのか?」
「ああ」
「でも、飯はまだだろ?どっか食いに行こうぜ」

外は酷い雨だけど、と苦笑の面を被って付け加えた。
面は上手く付け替えられているだろうか。元から歪な、苦笑という表情さえ引き攣っているような気がする。
まさかここで目当ての人物に会えるとは思ってもみなくて、心の準備が出来ていなかったのだ。ええい、静まれ俺の心臓。
心配やら不安やらと沢山の感情を押し隠している事を知ってか知らずか、少年はあっさり首を縦に振った。
どうせ夕食はホテルでは出ないのだから、どこかで調達しなければならない。それらの手間を考えての回答なのだろうが、経過など関係ない。大事なのは結果だ。
緩む顔を何とか引き締めてみるが、内から滲み出る気持ちまでは制御できない。少年にはそんなに腹が減っているのかと検討違いな気遣いまでされてしまったが、今の俺には些末な事と流せるだけの余裕がある。

「じゃあ行くか!」

声をかけると頷き、少年がついてくる。それを確認してから先導して今上がってきた階段を降りた。
全く止む気配の見えない空を一度見上げて、バサッ、と傘を開いた。









「あ、鍵」
「?」

小さな呟きと共に立ち止まった男に疑問の目を向けると、仰いでいた視線をこちらに絡ませて、困った様子で笑った。

「悪ィ刹那、先行っててくれるか?部屋の鍵、持ってきちまった」

どうやら先程エレベーター前で会う前に部屋に戻ろうとしていたらしく、鍵をそのまま持ってきてしまったという。
呆れた。変な所で抜けている男だ。

「何をやってるんだ」
「はは… フロント行ってくる。すぐ戻るから!」

走り去る後ろ姿を呆れて見送る。先に行く様に言われたので振り返って、はた、と気付いた。
何処に行くのかを訊き忘れた。徒歩なのか、バスを使うのかも分からない。バスを使うならバス停にいる方が分かりやすいだろうが、それすらも判断がつかない。
少しだけ途方に暮れて、何もない場所に立っているのも可笑しいかと思って、それまで進んでいた方向へ歩き始めた。

雨は止む気配を見せず、排水が追い付けずに逆流している。歩行と連動して靴が持ち上がる度に、すでに酷く濡れてしまった靴底が足の裏に吸い付いた。
十数歩行った所に小さな店が見えた。コンビニの様だが近寄ってみるとスーパーマーケットに近く、雨だというのに張り出した庇の下にも野菜を中心とした商品が並んでいた。
その横に立つ。客ではないので庇の下へは行かず、曇天の下で雨が傘を叩く振動を聞いた。
雨は嫌いじゃない。だが好きでもなかった。鬱陶しい上に逃亡の邪魔をする。こうしたアスファルトならば問題も少ないが、ぬかるんでしまうと面倒が多くなる。
更に最近は濡れて帰ると煩い輩もいる。思い出してしまい顔を顰めた。
傘を傾けて空を仰ぐ。広がる曇天は限りない。どこまでも灰色で、どこまでも同じ色だった。
一瞬。空隙を狙って白が横切った。

閃光だ。

紫をした龍が、明滅のあと灰を真横に切り裂いた。龍は音を引き連れて、今度は斜めに空を分断する。
多少色が違うがエクシアが所持しているビームサーベルを彷彿とさせ、綺麗だと思った。
もう一度見られるだろうか。
閃光を追ってくる音がこの身体に戦場を思い起こさせるのを感じながら、雨が裾にかかるのも構わず頭上を見上げた。






    












































雷は大分遠くへ行ってしまった。
名残惜しい思いもあるが仰向けを強要された首は正直で、ギシギシと音を立てていた。手を当ててぐるりと一回転させてみると、砕けるような嫌な効果音が付いてくる。
大分夢中になって眺めていたようだ。端末で時間を確かめようとして、部屋に置いてきてしまった事に気が付いた。そうだ、すぐに戻るからとテーブルに出したままだ。思わず渋面を作る。
端末はいつでも連絡を受けられるように携帯義務が課せられているのに、小煩い相手と連絡の取れないこの状況は、後から咎められる材料になるだろうと容易に予想できた。
溜め息を一つ吐く。
あの男と別れて10分近くなるだろうか。ホテルから数分も経たない内に引き返したし、鍵を預け直すだけなら、用事はエントランスで済む筈だ。こんなにも待つのは明らかに可笑しい。
恐らくすれ違ってしまったのだろう。こんな一本道でまさかとは思うが、場所を多少なりと移したのが失敗だったようだ。
探しに行こうとして、いつか男が言っていた事がふわりと脳裏に浮上した。
確か、どちらも探して歩き回ると永遠に見付けられない。移動を続ける物体を探すのは難しいから、はぐれてしまったらどちらかはその場に留まるべきだ、といった内容だった。
でも、それではどちらとも待っていた場合、会えないではないか。そう返した俺に男は、じゃあ探しに行くから待っていて、と言った。
あの言葉は本気だったのだろうか。この場合も適用されるのだろうか。
そもそも、あの男は覚えているのか。冗談ではなかったのだろうか。本当に、探しているのだろうか。
何にしても、もっと分かりやすい場所に移動した方が良いような気がした。ホテルも近い事だし端末を取りに戻っても良いかもしれない。
だが足が動かなかった。抗うように張り付いている。迷いが水を吸って重くなってしまった。
呆然と立ち竦む。どうする事もできず、同じ様に動かない灰色一色の空を見上げた。



空の灰色は尽きる事を知らず、凹凸もなく一色に塗り上げたキャンパスを作っている。滲み絵でも描くつもりなのかキャンパスは酷く水を含んでいて、大粒の雫が大量に滴り落ちていた。
傘で防げる限度はとうに越えている。靴も裾もすでにびしょ濡れだ。夏という季節のお陰で、濡れていても寒さを感じない事が唯一の救いだった。
足が動く事を拒んでから、どのくらいここにいるのだろう。端末が無いので正確な時間を知る術はなく、太陽も今日は一度たりと顔を見せようとしないので検討のつけようがなかった。それに、端末があるのならば、こうして惚けている訳もない。

何故、待っているのだろう。こんな傘も役に立たないような雨の中、濡れ鼠で、雨宿りもせず。
探していない可能性だってあるのだ。俺が別れた場所にいないのを見て、別行動を取ったのだと思ったのかもしれない。そうだ、そう考えたのなら約束はもう消滅している。なら、待っている方が馬鹿馬鹿しい。
しかし、あの男がそんな事をする筈がないと言う自分がいる。約束を守り、発言に責任を持つ。そういう男だ。

だから、動けない。
動いたらすれ違うかもしれない。探しているかもしれない。だから。

はた、と。何か可笑しい事に気付く。以前と違う、気づかなかった変化。
以前の自分だったら、待っているだろうか。
答えは否だ。恐らくエントランスで声をかけられた時も、素通りして終わりにするのではないだろうか。声は意味のある言葉として処理されないまま、何の疑問も持たず予定を確定させる行動を取っているだろう。
例えこうしてはぐれたとしても、黙って待っている事はない。すぐに切り替えて、一人予定をこなしていくだろう。他の人間の言う事など元から亡きもののように、あの男を簡単に切り捨てて。
ならば今の自分は。
どうして待っているのだろう。来ないなら当初の予定通り一人で行動しても良かったのに。そうする事も出来たのに。男が、以前かわした会話を、覚えているかもわからないのに。

何故、こうして、待っているのだろう。
何故、何故。
何故。

「……刹那!」

聞こえた声に、は、と顔を上げた。
水溜まりが跳ねるのも気にせず走ってくるのは、見慣れた長身。
それが目の前で立ち止まり、安堵の表情を見せた。膝に手を当て前屈みになった事でよく見えるようになった旋毛に、呆然と言葉を紡いだ。

「…ロックオン」
「ここに、いたのか。お前、端末持ってな、いんだもん。探し、ちゃったー」
「探した、のか」
「そりゃそう、だろー。約束、した、ろ?」

まだ整わない息で当然だと言う男を感慨深く眺めた。
本当に探したのか。こんな雨の中。こんなに息を切らせて。俺は、俺は。
安堵が身体を満たし、喉のあたりがむず痒くなるのを感じた。
深呼吸を繰り返して息を整えた男がこちらに手を伸ばす。その神妙な表情を眺めている内に、それが降り続く雨のようにするりと頬を滑っていった。

「待たせてごめんな。大分冷えてる。今日はもうホテルに戻ろうか」

首肯で了承の意を伝えた。
この男が言い出した約束だ。男が良いと言うのなら、もう良いのだろう。
ホテルまでの短い道程を、二人連れ立って歩く。
雨はまだ降っている。






    












































「37度4分」

フロントで借りた体温計が電子音と共に表示した数値。それを読み上げて、眉を顰めた。
いつも子ども体温だとからかっている相手だが、平熱がここまで高い筈がない。これはどう見ても微熱か、それ以上だ。

「それ、壊れてるんじゃないか?」
「こんな時に笑えない冗談言わなくても良いの。…氷とか貰ってくるから大人しく寝てろよ」

たまにこいつの発言意図が読めない。熱はない、と言いたいのだろうか。よくわからない。
こちらの否定と共に口を閉ざしてしまったのでそれについての説明はなく、何より病人に長々と話させる気はなかった。
病人には何より安静が第一だ。少年が嫌がろうともそこを譲る気は微塵もない。これは俺の所為でもあるんだし。
嘲笑に歪んだ顔を隠すように畳の目を見てから、胡座を立ち膝に変えて立ち上がる。ローテーブルに置いてあった鍵を持って扉へ向かった。
ノブに手を掛けた辺りで一つ思い付き、半身振り返る。

「何か欲しいものは?お坊っちゃま」

わざとらしく茶化して言えば、布団に埋まる顔が少しだけ持ち上がり、浮かべられている渋面がこちらを冷ややかに見た。否定するのも面倒だという様子を、如実に表す表情に肩を竦めて見せる。
軽い音を立てて頭が枕に落ちる。その為、唯一表情の伺える眼が隠れてしまい、途端に気持ちを汲み取る事が出来なくなった。眼は口ほどにモノを言う。そんなこの国の格言をぼんやりと思い出した。

「何も」
「何も?風邪ひきはワガママきいて貰えるんだから何か言っとけって」
「31のアイス」
「うん… 俺が悪かったよ…」
「冗談だ。…そうだな、スポーツドリンクが欲しい」
「それだけ?」

確認のように聞きかえせば、ああ、とだけ返答があった。それに了解と答えて扉を開ける。
扉が閉まるその刹那。音に紛れ混ませるように、ごめん、と呟いた。








丁寧に閉じられた扉が小さな音をさせて出入口を塞いだ。その後に鍵が回る。
耳をそばだて遠ざかる足音を確認して、音が聞こえなくなってから大きく息を吸い、吐き出した。腕で天井からの光を遮る。
似合わない事をしたと思う。しかも上手く伝えられなかった。意図の見えない気遣いに何の意味があるだろう。
上にかかる布団が首を圧迫する。苦しいとは感じないまでも鬱陶しい感触に、ぐ、と布団を下に引いた。深めに呼吸をして腕の向こうの天井を見詰める。

謝ってほしかった訳でも、罪悪感を抱いてほしかった訳でもなかった。男の誘いに乗ったのは俺の意思だ。その結果として、管理が行き届かず運悪く体調を崩したにすぎない。責任は俺にある。
それなのに男の顔に後悔が見えた。扉を閉める音に隠した謝罪が裏付けている。
自身の非ではないもので、何故痛みを抱える必要があるのか。痛みまで他人のものと自分のものを混同すべきではない。
あの表情を見ていると、何と名付ければ良いのかわからないものがぐるぐると渦を巻く。
気が付けば原因を取り除こうと言葉を紡いでいた。上手くはいかなかったが、あの男の罪悪感を拡散させようと、男の真似をして茶化すような発言を。

目をきつく瞑る。
乖離した心が頭とは別の行動を取っている。
見たくもない。気づいてしまった自分から、出来るだけ目を背けていたかった。
以前であれば有り得ない行動。自ら他者に介入しようなどと考えた事もなかったのに、それを無意識の内に選ぶ自分。
どこかが可笑しくなっている。それがどこであるかにも既に検討がついているのに、それを考えない様に霞をかけるもどかしさが嫌悪感を渦巻かせた。

期待する事を覚え始めてから。
他人を視界に入れるようになってから。
あの男が、与えようと視界に入ってくるのを無視できなくなってから。

悪い傾向だ。神を信じた時と同じ。
輝かしい奇跡を見せられてしまえば、魅せられてしまう。期待してしまう。信じてしまう。
また裏切られるかも知れないのに。
気を引き締めなければならない。同じ轍を踏まない為に、踏み込み過ぎても、踏み込ませ過ぎてもいけない。触れるか触れないかの瀬戸際。外郭が接するくらい。その場所で踏み止まらなければ、恐らく済し崩しになってしまう。

それでは駄目なんだ。俺が駄目になってしまう。
腕を退けて天井の電灯を睨みつける。段々と目が眩んで、電灯の周りにもやもやとした残像が見えた。
眩むほどの光。あの男は光に似ている。
暗い所に居続けた俺に、あの光は強すぎる。強すぎるんだ。




残像を残す目が暗む。
光に飲み込まれて、形も保てなくなってしまう前に。






  
















































一期21話後。ロックオンが負傷した後。
些細な変化。でも大きな変化。












「具合でも悪いのか」

不思議に思っていた事をやっと訊ねるきっかけを掴む事が出来て、答えもまだだと言うのに詰めていた息を吐いた。随分と緊張していたようだ。酸素を肺に入れ直しながらそう自覚する。でもそれも仕方のない事だ。

目の前に立つ絶世の美女、ではないが中性的な美貌を持つ青年は、この所、纏う空気に険を含ませている。それも、姿を視認せずともその存在を知らしめる程の強さを持つもので、正に針の筵に座らせられているという表現がこれ以上なく当て嵌まった。
そう、原因はどうやら俺のようなのだ。
だが心当たりはない。何故、と訊こうにもその威嚇と牽制で構成された視線に居竦められ、取りつく島もない。だから、やっと得た機会を無駄には出来なかった。

「具合は悪くない」
「だがここ数日、機嫌が悪いだろう。俺に原因があるなら言ってくれ」
「………」

青年の顔が嫌そうに歪む。俺に指摘を受ける事を特に嫌っているから当然の反応かもしれないが、俺だってこれ以上の理不尽に耐える義理はない。
暫く無言の攻防が続く。こうなったら意地の張り合いだ。
辛抱強く透き通った赤い眼を見ている。と、先に折れたのは青年の方だった。

「……君に原因はない。僕の問題だ」

八つ当たりみたいなものだと青年は言う。次いで、すまないと謝罪された時には自身の耳を疑った。
あの青年が、俺に、謝罪。
空耳かと疑った発言は、しかし屈辱で閃く眼で睨む青年自身が裏付けていて、また驚くしかなかった。

「…理由を訊いても?」
「………」
「嫌なら、良い」

気にならないと言えば、大ウソになる。しかし、躊躇の色がはっきりと見て取れた。青年が嫌がるのなら無理強いするつもりはない。すぐに逃げ道を用意する。
謝ったという事は、青年自身に何かしら後ろめたい感情が潜んでいるという事を表しているのだろう。そうした自覚がありながら、コントロール出来ない類いの何か、なのだ。思い通りにいかないからこそ、八つ当たり、なのだろう。俺の憶測でしかないが。
だが、それさえ分かっていれば、あの視線を無視する事が出来る。青年の所為ではないもので責めるつもりはさらさらない。
思考の海から帰ってくると、眼前の赤い眼が強い光を放ってこちらを見ていた。

「他言はしないでもらえるか」

意を決した声が静かに落とされた。






  












































最近やたら二人でいる所を目にする。それまで一方的な犬猿の仲だったから、変化がより際立って見えた。
それはまぁ良い事だ。作戦行動に支障を来すんじゃないかと心配していたところだし、それを抜きにしたって人間関係が円滑であるに越した事はない。
ただ。
もう一つの変化には確信を持てないものの、焦燥にも似た危機感を感じ始めている。







「なぁ、どう思う?」
「…ティエリアと刹那ですか?」

目的語のない質問だったが、隣に立つ青年には伝わったようだ。
恐らく視線の先を読んだのだろう。胡乱な目のまま緩慢に頷く。それとは正反対に青年は笑った。

「仲良くなって良かったですよね」
「まーなァ」
「ロックオンは嫌なんですか?」
「そーじゃねぇけどよ…」

歯切れよく答えられない俺を、灰色の眼が訝しんで覗き込んだ。
それも当然か。普通、歓迎されて然るべき種類の出来事だし。俺の憂いはごくごく個人的なものだから。

「なぁ、あの二人と話す時ってどんな感じ?」
「どんな感じ?すみません、質問の意図がよくわからないんですけど…」
「えーと、普通に会話出来る?」
「普通にできてると思いますよ?二人とも、以前より少しだけ返ってくる言葉が増えましたから」

何が普通なのかはよくわかりませんが、と添えて苦笑した面に、違いない、と苦笑を返す。
質問が悪かった。今のは俺の欲しい回答を直接でも間接的でも導き出すものではない。曖昧な評価を求める会話のとっかかり。
軽く息を吐いて視線を真っ直ぐ持ち上げる。その先には話題の二人。正しくは俺の想う一人。
回りくどくいのは辞めよう。

「刹那の事なんだけどさ、アレルヤと会話してる時はよそよそしかったり、すぐいなくなろうとしたりする?」
「刹那?…いえ、特には。ロックオンにはそうなんですか?」

んー、と伸びをしながら立ち上がり曖昧な返答に留める。ただ、意味ありげに目配せだけをして、青年から離れた。
向かう先は話題に上っていた二人。二人で話をしているにも関わらず、盛り上がりもせず無表情というのがあの二人らしくて、思わず苦笑しながら近づいた。

「何の算段かな?お二人さん」
「ロックオン・ストラトス」

フルネームで呼ばれて、いつになったら普通に呼んでくれるのかと片方だけ口角を上げた。
二対の赤い眼が何の感情も浮かべずこちらを見ていたが、より深い色を持つ方が先に逸らされた。身構えていたにも関わらずキシリと痛む胸に顔を顰めそうになって、得意のポーカーフェイスで覆う。悟られないように無理に言葉を繋いだ。

「二人して深刻な顔して、何を話しこんでたんだ?」

次のミッションはまだ決まってないだろ、と続ける。
それに頷いたのは紫の髪を肩口で切り揃えた青年。首肯の拍子にサラリと髪が滑り落ちた。

「フォーメーションの確認と迎撃プログラムの一部自動化の必要性についてだ」
「まァた、小難しい話を…」
「万全を期していないと守れないだろう」
「あー… その節はどーも」

青年の意味ありげな視線。それには心当たりがあった。
揶揄を受け取って苦虫を噛み潰した気分になる。今も眼帯で覆われたこの眼の事を言っているのだろう。
取った行動が間違っていたとは思っていない。これからも思わない。俺は何度だって同じ行動に出るだろう。だから咄嗟に滑り出そうになった謝罪を、おざなりな礼すり替えて飲み込んだ。

「…ティエリア」
「時間か」
「時間?何の?」

少年は俺の質問には答えず、それだけの会話で心得た青年と頷き合っている。床を蹴る音が鳴って、少年の体が扉へ流れた。
引き留めようと動いた体に気付いた理性が押し留める。その躊躇の一瞬を使って、小さな背中は扉の向こうへと消えていってしまった。
未練。それが抱いている感情に一番近くて、閉まった扉が透視出来ないものかと、叶いもしない願いを込めて見つめた。

「刹那はこれからイアンとエクシアの整備だ」
「ああ…そういえばそうだったな」

デュナメスが大破してからというもの、多くもない整備士はそちらの復元にかかりきりだ。ガンダム好きのあの少年が、自身の愛するガンダムを整備出来ない訳ではないが、やはりというか当たり前というか、専門の整備士には劣る。整備士の復帰を心待ちにしていただろう事は簡単に予想がついた。
こんな時、思い知らされる。少年のガンダム狂いは十分理解していたつもりだが、改めて突きつけられると重いものが胃に落ちる。

「それで?貴方はどう思いますか?」
「へっ?」
「迎撃プログラムを構築し、尚且つ一部を自動化する事について」
「え、ええー… 俺はハロがいるからなぁ」
「ハロに一部の迎撃も任せてみては?」
「プログラム組んでる時間なんか無いんじゃないのか?相手さんが待ってくれないだろうと思うけどね。まぁ、俺の狙撃行動に影響が出なきゃ、文句はねぇよ」

青年には悪いが、苦笑を湛えたまま紡ぐ言葉にはもう中身がなかった。
きちんとした整備は久し振りだから。ガンダムが全てだから。
それは分かっている。理解している。だから約束の時間より大分早くても少年は出ていったんだ。と、素直に納得するには、少し偶然が重なりすぎていた。
疑惑が確信に変わっていく感覚。深い所にある、どす黒いものが一瞬身動ぎした。






    












































避けられてるみたい、ですよね。
戻ってきた俺を、青年は困ったように形だけの笑みで迎えた。みたい、じゃない。避けられてるんだ。
でもそれを口にすると余計自分が傷つきそうで止める。

「何かしたんですか?」
「心当たりがあんなら相談しねぇよ」
「それもそうですね」

隣に戻った途端投じられた質問を、溜め息と共に投げ返す。青年も色好い答えは期待していなかったようだ。あっさりと、俺から答えを引き出す事を諦める。
その潔さにさえ苛立つ。頭が痛かった。ずしりと重くて考えたくない。それを立て続けの質問が遮った。

「あの、刹那の様子に気付いたのはいつです?」
「はっきりは覚えてないが… そうだな、俺の怪我の後、少ししてからだったかな」
「じゃあ、ティエリアとよく話しているのを見掛けるようになったのは?」
「それも怪我した後だ。でもそっちの方が、先だったような気がする」
「その辺りで他に気付いた事は?」
「特に… でも最近、ティエリアとはよく話すようになったかも」

話題は時にMSについてだったり、時にその日にあったクルーとのやりとりであったり。いろいろだ。しかしそういった些細な事を、険悪にならずに話せる様になった。それは喜ばしい事であり、そのこと自体が、以前とは比べ物にならない大きな変化だと思っている。
質問はそれで終わりだったようで、手を顎に宛てた青年は難しい顔で、そうですか、と呟いた。
考えこまれると詰まらないなと思うが、せっかく俺のために頭を使ってもらっているんだ。思考の邪魔をしては悪い。
静かに考える人になっている青年を横目に眺めていたが、危惧は杞憂に変わってすぐに青年と目が合った。

「ちょっと纏めてみると、『貴方の怪我の後』、『ティエリアと刹那が一緒にいる事が多くなって』、『刹那が避けるようになって』、『ティエリアと話すようになった』って事ですか?」
「そうだな」
「ティエリアと話すようになったのは何故ですか?」
「何故って… 最近、刹那とよく一緒にいるし、話かけたら今日みたいに刹那がいなくなっ、て…」
「そうでしょうね」

あれ、因果関係がありそうな違和感。
行動パターン、読まれてるんじゃないですか、と青年は笑った。
行動パターンを読まれている?まさか、そんな。
百歩譲ってそうだと仮定しても、そんな事して何になるって言うんだ。理由がない。
しかし思い出せば思い出すほど、目当ての少年がいなくなった後、絶世の美貌をもつ青年と会話する機会が格段に増えている事に行きあたる。
少年と話さなくなった分、最近一緒にいる青年と話すようになった。もしかしてそれが結果であり原因?

「モテモテですね、ロックオン。羨ましい限りです」
「モテモテってなんだよ」
「だって刹那もティエリアも貴方にご執心じゃないですか」
「え?」

刹那もティエリアも?
今までの経緯を聞いてどこからそんな結論が。
どういう事だと聞き返したが、その時にはもう自動扉の前まで移動していた青年は、頭だけ振り向いて、鈍感は嫌われますよと言っただけだった。







掴めなかった手は空を掻き、呆然と伸ばされたまま時間が止まった。閉まった扉を見つめる。そんな事をしても無駄な事に随分経ってから気づいて、行き場のなかった腕をだらりと定位置に戻す。
鈍感、は初めて言われた。人の機微にはそれなりに悟いつもりだったから案外ショックだ。
そんな事よりモテモテって。モテモテって。
確かにあの冷徹美人は俺が怪我してから大分変わった。怪我させたという責任感もあるのだろうけれど、それだけではなくてもっと根本的な。他人に対する認識そのものが変化した、という印象が強い。良い傾向だろうと思う。
それに比べあの無口な少年は。
目に見える変化はない。まあ、雰囲気は柔らかくなったと認める事は出来るだろう。でもまだ寄せ付けない空気を残していて、俺が怪我をした後となっては悪化しているようにしか見えない。話しかける隙さえ与えてくれなくて、何とか側に寄れたとしても適当な理由をつけて、いつの間にかいなくなってしまう。
逆戻りだ。初めに会ったあの頃に。そう思ったと同時にざわりと悪寒が這い上がった。懐き始めていた筈なのに、今は背を向けて更に遠くに行こうとしている。そんな事。
胸を擦った。そうでもしないと痛みが転移して関係のなかった所まで疼き出してしまいそうだった。ざわざわする。場所の特定できない寒気が全身を這う。段々痛みに変わる悪寒に正常な思考が奪われていく気さえする。思考はどうにも纏まらなくて、切ない感情だけが袋小路で円環を描き続けた。
それでも。救いの藁に違いなかった青年は希望とも取れる言葉を、冗談めかして、意味深長に吐いていった。本当にそうなんだろうか。希望を持っても良いのだろうか。信じてもいいのだろうか。


でも既に、その言葉だけが拠り所。






    












































「刹那」

やっと見つけた。
最近あの冷徹美人な青年とよくいるから、少年が一人でいる時間を狙うのは案外難しかった。
今、美人な青年は整備士も付き添うガンダムの最終点検中で不在。次を待つキュリオスのマイスター共々、格納庫へ出払っている。因みに俺と少年はそれを先に終えていて、俺にとってこれ以上ない絶好の機会。
安堵から口をついた名前に少年がくるりと振り返った。その反応が何より嬉しい。
ただそれだけの事に一喜一憂しているなんて可笑しいだろうか。それでもこの少年に対する行動はコントロール出来ないし、するつもりもないから。
いつものポーカーフェイスを剥いで、裡から溢れる出るままに表情を崩した。

「探してたんだ」
「急な用件か」
「ああ」

俺にとっては。
少年からすると重要度を極端に下げるその言葉を飲み込んで、質問を一番近い所に据え置いた。

「最近、俺を避けてるよな?何で?」

言っていて自分の表情がなくなったのが分かった。でも取り繕えない。そんな余裕はない。
どんな変化も見逃さないように赤い眼を見詰める。変化は、ない。うまく、殺された。
でも一度瞬きした後、少年らしさが失せた、無表情の仮面に切り替わったように思えた。

「何の事だ」
「しらばっくれるなよ。俺が怪我してから近寄らなくなってるだろ」
「気の所為だ」
「気の所為なんかにさせるかよ!」

抑えの利かない感情のまま大股で距離を詰め、加減もせずに二の腕を掴んだ。
少年は顔を顰めない。不快の色さえ表わさない。
どこか可笑しい。
少年は掴まれた腕を伝って俺を眺めると目を細めた。

「放せ」
「なぁ、ティエリアが何か言ったのか?だったら俺が、」
「ティエリアは関係ない!」

強く強く睨まれる。
唐突に出現した感情は拒絶。あまり向けられたくない類のものだった。小さな針が、一つ刺さる。
それでも、ぶつけられる感情が何であれ、久し振りに少年がこちらを向いてくれた気がして、急激に体温が上がった。
そんな俺の沈黙をどう取ったのか分からないが、少年は声を荒げた事を恥じるように視線を落としながら、関係ない、と繰り返した。

「でもティエリアと話すようになってから俺を避け始めただろ?」
「それは俺が…っ!おれ、が…」

そこまで言って、少年は唇を噛んだ。
その先を、聞きたい。
無意識に唇へと伸ばした手にビクリと肩が揺れたのを見る。それでも唇を撫でる事を止めようとは思わない。
それなのに。俺が求めているものは分かっている筈なのに、紡がれたのは続きではなく、仮面を被り直した無機質な言葉だった。

「ティエリアはアンタを大切だと思ってる。話を聞いてやってほしい。彼にはアンタが必要だ」
「今はティエリアの話をしてるんじゃない。俺はお前がどう思ってるのかを聞きたいの」
「俺の事は関係ない」
「関係なくなんてない!」

腕を拘束する力が強くなる。鍛えている事がよく分かる、筋の束で出来た固い腕。それを支える骨に指先が食い込んで、ゴリ、と嫌な音で束が移動した。
後で痣になるに違いない。そう分かっていても腕を放すなんて選択肢はなかった。
掴めば刻みつけられる痕のように、その心に残れば良いのに。
衝動のまま握りしめれば、少しだけ痛みをあらわにした表情が見えた。ポーカーフェイスをこの手で崩す瞬間。それに何より震える。

「さっき言いかけた『俺が』、って何?」
「それは…」
「なぁ刹那、教えて。俺は、お前の考えてる事を知りたいんだ」

もう、懇願だった。
教えて欲しい。理由を知りたい。ただそれだけ。
少年が身動ぎしたので掌にこめた力を弛める。その代わりに、もう片方の腕に空いていた手で縋り付いた。自分の心がこんなにも荒れているのに、相手の凪いだ赤を見ているのも限界で、低い位置にある肩に額を預ける。額に声が響いた。

「俺は、ガンダムになれない。俺はまた、救えなかった」

アンタに怪我させた。
だから、と続く言葉は胸の奥底に沈んだ。
少年の表情は変わらず動いてはいないだろう。しかし、耳元にある口から吹き込まれる殺しきれない慟哭は、少年の内側が寄せては返す事を決して止めない海原のように荒れている事を裏付けている。
その状況に、打ち震えた。
少年の一連の行動理由が、動揺が、俺から生まれていた。その事実に不謹慎にも頬が緩みそうになり、顔が少年から見えない位置であった事に感謝した。溢れだしそうな感情を、手の中にあるものを包み直す事で何とか抑える。

「救えなかったから、俺を避けるの?」

救えなくても、壊れかけても、まだ守る意思があるのなら、まず手の届く場所にいなくては話にならないだろう。努めて冷静に聞こえるように声を調整する。躊躇を見せた少年に、駄目押しをする為に耳元で名前を呼んだ。自然に、優しく、甘く。

「………俺が側にいては駄目だと思った」
「何で」
「俺がいては、またアンタは怪我をする」
「何で刹那がいたら、怪我するの?」
「俺なんかが傍にいたら、アンタに迷惑がかかるに決まっている」

何かが可笑しい結論に少年は気付いていないみたいだ。何で、ともう一度聞いてみるものの、それで理由は全部で、これ以上説明のしようもないと首を傾げられるだけだった。
可笑しい。俺、なんか?

「刹那、俺はお前さんが傍にいたって迷惑に思った事はないよ」
「だが怪我をした」
「これは俺が選んだ行動だから、刹那の所為じゃない」
「だが、」
「俺は、」

視線と声を被せる。
少し黙っていて。聞いてほしい。

「俺は、お前さんに側にいてほしいんだよ」

いや、側にいてほしいんじゃない。俺が側にいたいんだ。
赤い視線を捉えて囁く。様々な祈りを込めた純粋な願い。
それでも少年は、だが、を繰り返す。

「だが、じゃない」

側にいさせて。離れていかないで。
それだけで良いんだ。他に何もいらない、欲しがらないから。

「俺に何があったってそれは刹那の所為じゃないし、俺が望んだ事だから」

望みに立ち塞がるなんて、許さない。例え、それがお前でも。
だからこの選択も、邪魔させない。

「離れるなんて許さないから」

手の届く範囲に、でなければ目の届く範囲に。でも視界から消えるなんて許さない。許さない。許さない。
いくらお前が望んでも、俺が望まない。俺を阻むお前の願い何か、聞かないよ。どんなに拒絶されたって、傍にいる。


渦を巻いた黒い塊が頭を擡げた。でもまだ大丈夫。まだ。
場に似つかわしくない笑顔を少年に向けて、相応しいように鎖をかける。少しだけ震えた体を無視して、寄せた耳元に、側にいさせて、と潜ませた。

出来る事なら、それを許してほしい。






――――――――――
首だけ持ち上げた闇はまたも眠りに落ちる。それは春眠のような浅い泡沫。忍ばせていた足を踏み鳴らせば、直ぐにでも足を飲むだろう。






  

















































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