窓際最後列、日当たり良好
忘れもしない入学式
チョークの足跡を横目に
放課後のチャイム
君の筆跡が残る日誌を
制服に包まれた君の素顔
テスト用紙の裏で告白
君を盗み見る
お昼休みダッシュ
日焼けしたカーテン
授業中メガネ
夏服から覗く白い肌
方程式で成り立たない青春
千年前の恋文にときめき


title:hazy























































































現代学園もの。学園なんて洒落た所じゃなくて何の変哲もない普通の学校。
大抵年齢に合わせた役になってますがフェルトは例外。
話同士の繋りはなし。刹那と刹那を取り巻く人々の話。














今日は、ニュースも新聞も数日振りの晴れ予報。しかし朝からこちらが予想通りの雨だった。
何かと曇っているこの地方は雨や曇りの予報は高確率で当たるのに、晴れは意図して外しているのかと思うほど当たらない。天候を良し悪しを予報士の所為にする気など更々ないが、それでも3回に1回くらいは当てて欲しいと思うのは高望みだろうか。
そんな所に住んでいるから雨は嫌いではないのだが、服が濡れたり鞄が水を吸ってしまうのは頂けない。濡れた服はペタペタと肌に纏わりついて気持ち悪いし、いくら鞄が何も入っていない程薄っぺらいからといって紙類が入っていない訳もない。雨の湿気は数少ない重要な紙片を容赦なく波打たせ、ものによってはインクが流れて読めなくしてしまうものもある。持って歩くほどの必要性がある紙片なだけに、そうなってしまうと後々面倒な事になるのだ。
それが遺憾なく発揮されたのが前回のテスト前。被害を受けたノートは正しくミミズが這ったような象形文字と化していて使い物にならず、調達に奔走しなければならなくなった。
交友関係が決して広くない自分にとってあれはテスト以上の苦行。思い出しただけでげんなりと肩が落ちた。

空を見上げると雨足はそこまで強くなく、しとしとと長く続くタイプの滴が後から後から地上へと降りていく。先週も似たような雨が降っていた時、授業の中でこういうのを小糠雨と言うのだと言っていた。
あの国語教師は授業の中で無駄知識ばかりを散りばめてくる。それなのに授業の進み方は他のクラスと同等か、或いは先を行くペースであるのが不思議でならない。しかも早いからといって進め方が雑な訳では決してなく、無駄を省き大切な部分だけを教えるという理に叶った高等テクニックをいとも簡単に、困難でも何でもないように、さり気なく披露するのだ。勿論効率良く纏まっているのだからテストに支障が出る事はない。要領が良いのだろう。そこは認めなければならない。しかし担任でもないのに妙に絡んでくるのは何とかしてほしい。絡んでくるといえばオーラルの教師。教師とは概して鬱陶しい生き物だと理解していたつもりだが、認識が甘かったと言わなければならない。しかしアレは流石に限度を越えているのではないだろうか。話しかけてくるだけでは飽き足らず、拒絶しても追いかけてくるなど。人に嫌な事をしてはならないと学んでこなかったのだろうか。教師ともあろうものがそんな馬鹿な。大体何故俺なのか。その労力を異性に向ければ良いものを。それでも犯罪であるだろうが異性であるだけまだ健全であろう。ああ、女子にも人気があるんだったか。見た目が良いからこそ残念だ。本当に残念だ。

…駄目だ。眠くて思考にとりとめがなさすぎる。
今は幸い得意としている数学。取り敢えずこの眠気を何とかしよう。そう決めて楽な体勢を取った。







「……ナ、セツナ」
「……………フェルト?」
「お昼」

起き上がって見渡すと授業は既に終わり、教室内の人数も3分の1ほど減っている。
いつもなら授業の終了を告げる鐘で起きるのだが眠りが深かったのかそうならなかったらしい。
昨夜はそんなに夜更かしをした覚えはないのに。そんなに眠かったのか、と首を傾げた。

「お弁当は?」
「持ってきた」

刹那は偉いね、と無表情で称賛してくる少女に、そうでもない、と無表情に返して鞄から包みを引っ張り出した。
少女が起こしてくれたので十二分に時間が残っている。これなら急いで食べる必要もない。悠然と包みの固結びに手をかけて、ふと窓を見た。

「晴れたのか」
「うん。3時間目の最後の方から」

曇天であった空は晴れ渡っていた。
雲は東の空に名残として浮いていたが、予報が半分当たった青空が何日か振りに広がっている。
雲が切れたお陰で日差しもぽかぽかと暖かい。絶好の昼寝日和だ。
持ち上げた箸を止め、隣に座る少女に声をかける。

「テスト前に現国教えてくれるなら」

質問も口にせず回答を得た。一つ頷いて交渉成立。
これで午後の予定も決まった。
一つ欠伸をしてから箸をご飯に差し入れた。






  




































お隣さんには不思議なお兄さんと俺と歳の近いお姉さんがいる。
幼い頃、一人っ子だった事に加え、今よりも気難しい気性だった俺に遊び相手というものがいる筈もなく、孤立する事が多かった。
大人でも根をあげるほど扱いに苦労を強いる俺に、辛抱強く付き合ってくれたのが二人だった。二人のお陰で、幼少時期に寂しかった思い出はない。
お兄さんは4つ歳上な所為もあり小学校以来同じ学校になる事はなかったが、離れたといっても学校が違うだけ、と言って柔らかく笑うので、小学校から登校は一緒だったし、3人で遊びに行く習慣も未だに続いている。
本当に柔らかい笑い方をする人だった。表情の作り方がよくわからない俺にとって、尊敬や憧憬に似た思いを抱くに値する存在。
お兄さんの事が頭にあったから、高校を選ぶ時に自然と同じ所を選んだのではないかと今になって思う。
地元が田舎で高校が幾つもない事と、自らの偏差値等を考慮するとこの学校しか当てはまらなかったと言えなくもないのだが、それでもお兄さんの存在は大きかった。俺の行為で笑顔を作れたら、と願うくらいに。

そうして選んだ高校を入学式の時点で辞めたくなったのは少し申し訳ない。
高校を決める際に情報収集を怠ったのは認める。だが学業レベルや校風は調べても先生まで考えて学校を選ぶだろうか。
だからこれは不可抗力、出会い頭の事故と言い得る筈だ。





「君、新入生だろう」
「そうですが、何か」
「剣道部に入る気はないかい?」
「ありません」

入学式も終わり校舎を散策していると、どこかの雑誌でモデルでもしてそうな、キラキラした人物に声をかけられた。金髪碧眼。本当にいるのだな、と感心してしまう。
若く見える事から推測して父兄ではないだろう。という事は教師なのか。これが。
取りつく島もなく断ったのにも関わらず、全く意に介した風もなく綺麗な顔に強気の笑みを作って尚も勧誘を続ける。さすが教師。マイペースだ。

「まぁそう言わずに。見学だけでも」
「興味ないので」

しつこい。こういう手合いは隙を見せるとずるずる流されてしまうので触らない様にしているのに、どうしてか引き寄せてしまう事が間々ある。そういう時に限って面倒な相手に当たってしまい、後々まで関が続いてしまったりするので容赦しない。していないのだが。

「そう邪険にしないでくれないか。可愛い顔が台無しだよ」
「男に対して『可愛い』は褒め言葉ではないと思います」
「少しだけで良いんだ」
「………!」

掴まれる腕。
ざわりと走る嫌悪感。
キモチワルイ。

「俺に触れるな!」

手首を返して捻り、手が離れると距離を取った。
すぐに詰められる間合い。しかし一番慣れ親しんでいる結界。
一歩でも入れば全てを駆逐する絶対領域。侵入しようものなら切り刻んでやる。
しかし相手も馬鹿ではないらしい。驚きで固まっているだけなのかもしれないが、それまでしつこく迫ってきていたのに動こうとはしない。取り敢えず牽制する事は出来たようだ。

「剣道部には入らない。わかったなら俺に近づくな」

一つ視線を向けて踵を返す。走ると追ってくるだろうという確信があったので逸る気持ちを抑えて悠然と歩きだした。
もしかしたら我に返るのが早くて追ってくるかも知れないと覚悟していたが、まだ呆然としたまま自我が戻って来ていないらしい。助かった。
今日はもう帰ろうと突然重くなった足を校門へ向けた。









ばたばたと足音がして予想をつけた瞬間、予想通りの人物が扉を壊さんばかりに開けた。

「カタギリ!」
「グラハム、どうしたんだい?血相かえて」
「姫を射止めるには金の鳥と他に何が必要だったかな!?」
「は?」






    




































窓枠の向こうに広がる曇天を見やる。昨日の夜から降りだした雨は朝にはあがっていたものの、濃い灰色をした雲と同じ色の水溜まりを残していた。
昨日より幾ばくか明るい空模様であるとしても垂れ込めた雲は手が届きそうな程に低い。
手が届いたら、その向こうが見えるだろうか。

く、と控え目に袖を引かれる。視線を流すと隣に座る少女が黒板を見詰めていた。
カツカツとチョークが当たり、身を削りながら白い軌跡を描く。少女はその動きを忙しなくノートにトレースしている、かと思えばノートを押さえる左手を僅かに退けて、シャープペンで二度ほど音もなく示してきた。
罫線の並ぶノートに目を這わせる。几帳面に整列した意味ある言葉。その中の一団だけが罫線を斜めに横断している。

“こっち 見てる”

隣に見やすいよう書かれた文字は主語も持たない一言。それも少女の手によってすぐに白紙に戻される。
簡潔な忠告を確かめるように教卓を窺えば、湖を映した目と合いそうになって瞬きの瞬間を使って逃れた。
意識を外に向けていたのを見られたのだと悟る。目敏いあの国語教師は、直接注意こそしないが生徒を事細かに観察し、たまに思いもかけない事を聞いてくるのだ。
教師という職業は生徒の大切な何かを見落とさない為にも、鋭い観察眼を持っている必要があるのだろう。そういった意味ではとても向いている仕事に就いたと言える。
ただ、あの底まで見えそうな透明度を誇る湖。あれは素直に綺麗だと称賛出来るのだが、覗きこんだものを正しく映す鏡の様で気持ちが悪いのだ。
そうした理由まで言った事はないが、今教壇に立つ教師に苦手意識を抱いている事を少女はどこからか察したようだ。何かと気にかけてくれて助かっている。
人付き合いを苦手とする自分だが実は引きが良いのかもしれない。助けてくれる人も、傍にいてくれる人もいる。寂しかった事なんてなかった。
そう思ってからここ数ヵ月の出会いを思い出して否定しそうになったが、それもある意味強すぎる引きの良さか、と溜め息を吐いた。

チョークの音が止まり、代わって声が響く。手に顎を乗せて視線だけ窓に向ければ変わらぬ雨雲一歩手前の灰色。長い瞬きでそれらを遮った。






    




































掃除の締めくくりであるゴミ捨ては、いつの頃からかじゃんけんで負けた者が請け負う事になっている。
それは高校に入学する以前から、中学より前から変わらず、今日も今日とて伝統的に行われた。
そして本日の犠牲者はたまたま俺だったりする。






がこんと少しばかり乱暴にプラスチックのゴミ箱を傾ける。わさわさと1日分の残骸が更に大きなゴミ箱に移る様を見届けてから、それをごん、と横に置いてもう一つも同じ様に中身だけを捨てた。
あんまり乱暴にするなよ、と顔見知りの用務員からぞんざいな声がかかる。扉を足で開けておいてくれている姿は親切なのか物ぐさなのか判断が難しい所だ。
気さくに話しかけてくるこの用務員は、年の功か距離の取り方が上手く、俺の人嫌いを知らない筈なのに絶妙な位置を保つ。そんな珍しい類いの人間だったので、隣りに座る少女同様比較的早く名前を覚えた一人だ。
空になったごみ箱を覗きこんでとりあえず置くと、またごん、と大きめな音が響いた。
だから言っているだろう、とくぐもった声が窘める。腰から屈んで作業をしていたから見ているかどうかなど分からなかったが、返答代わりに一つ頷いて二つのゴミ箱を一つずつ携えると階段を上がった。

教室に戻ると案の定掃除当番の面々の姿は既になかった。時計も15:30をさしており部活の始まる時間。肩にスポーツバッグをかけて出ていく一団が出るのを待って教室へ入った。
行きより軽くなったとはいえそれなりにゴミ箱は重く、定位置で手を離すと第一関節が赤く強張っていた。握ったり開いたりしながら鞄のある席に近づいて机に体重を預ける。
窓の向こうには分厚いフィルター越しに透けた現実が流れている。手が届かないその光景を眺めた。










窓の外の喧騒。
笑顔。
一人しかいない広い部屋。
歓声。
交代の角度で色を変える太陽。


赤い。
赤い。
脆い檻を折り成す静謐。






「刹那、君?」

静けさを破られる。散っていく残滓が手をすり抜けて少しだけ残念に思った。
ぐっ、と頭を持ち上げて教室の入り口で立ち止まっている闖入者を見る。よく金髪の少女といるのを見かける、焦げ茶の髪が襟足で跳ねているクラスメイトだった。見覚えのある顔だが名前は思い出せない。

「部活が終わったのか」
「ううん、僕は忘れ物を取りに来ただけだよ。刹那、君は今までここにいたの…?」
「いや、俺も忘れ物をしただけだ」

さらりと当たり障りのない偽りが外面を取り繕った。
不審そうに寄っていた眉が解放されたのを見て選択が正解だった事を知る。良くも悪くも目立ちたくはなかった。
会話が途切れる。
その瞬間を狙ったかの様にチャイムが鳴り響き、部活の終了と居残りの終了を告げた。



簡単に挨拶を済ませて出ていく後ろ姿を見送ってから、また枠に切り取られた世界に視線を落とした。
あのたった一瞬の内に外は様変わりしていて、それまで目的を持っていた一団は散り散りになっていた。
じきに人が来る。先ほどの少年の時の様な無駄を省く為に、鞄を持って教室を出た。






    




































1日が終わると生徒の帰り際に提出される日誌。それを職員室の割り当てられた席について開く。
勝手知ったる二年目の机を漁り、日誌に目を向けたまま赤いボールペンを取り出した。

今日は1日中曇り。そういえば昨日もそんな天気だったと思い当たって1ページ前を確かめた。
昨日の天気は霧雨。ああ、そう言えば傘を持ってきていなくて愛車まで走ったのだった。
小さな記憶違いに悔しい思いを抱きつつ今日の分の報告に戻る。
事実が淡々と書かれている段落に書写の見本宛らの字が等間隔で並んでいる。曲がりなりにも担任として持っているクラスなだけにその日の時間割は把握しているので、文字の綺麗さだけを情報として取り入れ感想の所まで流した。

多少なりと期待していた感想もこれまた残念な事に無味乾燥としたものだった。
書いてあったのは事実の内訳、授業の内容だけだ。そこには感想として書かれるべき『心に浮かんだ思い』というものがすっかり欠落している。
色がないというか、硬質なシャープペンで書かれた細い黒が雰囲気もそのままに表していた。
イメージ通りもここまで来るといっそ見事だ。普段から寡黙で、しかし科目はスマートにこなす少年の頭の中身に興味があったというのに。

しかしこれはこれで。
感想の所に感想を書かないのは不正解だ。問いには正確に答えなければならない。
日誌の事だと呼び止めればあの少年でも無下には出来ないだろう。普段は取りつく島もないから良い機会を得たと思えばいい。ものは考えようだ。
そうでもしなければ先生などやっていられない。それをこの二年で嫌というほど思い知らされた。
だが、あの少年はどうしても構いたくなった。
ただ純粋に。どうしたらあんな目ができるのかに興味を持った。本当にそれくらいしか説明できる理由を持ち合わせていない。

しかし、殺されない様にしないと、と気を改める。興味が危険なものだという事は先人が語っている。
そしてあの少年が興味だけで首を突っ込んで無事でいられる相手だとはどうしても思えなかった。心してかからなければならない。
少し冷めつつあるマグカップを持ち上げてよく回る椅子に深く凭れてコーヒーを流し込んだ。
よく回る椅子はギシギシと唸って耐えている。






    




































「あ、刹那」
「済まない、遅れた」
「それはメールで了解していた。何かあったのか?」
「先生に捕まっていた」

見慣れた公園に集まった面々に謝罪して呼吸を整える。その横で循環型の噴水が涼しげを通り越した轟音で流れていくのが眼の端に映った。水が飲みたい。
やはり学校からここまで走るのはキツい。部活にも入っていない上、長距離に向かないこの体ではすぐにスタミナが切れてしまい、この様だ。
深めに息を吸うと取り入れた酸素が焼けた喉を擦って思わず噎せ込んだ。
大丈夫、と心配そうに銀の眼を細める青年の髪が、覗き込むように動いた頭に合わせて滑り落ちる。
少し離れた場所で同じように歪んだ金の眼が、より低い位置で白髪との美しいコントラストを持ってこちらを見ていた。


余計な心配などかけたくない。この人たちとは対等にありたい。それなのに自分はいつも迷惑をかけてばかりだ。


悔しさに唇を噛みそうになって、堪える。それより先に息を整えてしまわなければ。
大丈夫だ、と返してまだ酸素を貪欲に貪ろうとする肺を無理矢理押さえつけた。苦労の甲斐あって漸く咳だけは止まる。それだけでも随分楽になった。
俺が正常な呼吸を取り戻すのを見計らっていたのだろう。もう大丈夫だ、と声を発しようとした瞬間、じゃあ行こうか、と声をかけられた。
見計らっていたとしても、あまりのタイミング。心を読まれたのかと思って振り仰ぐと、全てを悟ったような笑みを返されてしまった。
昔から青年は悟い。感情にも雰囲気にも敏感で、それらを押し込める傾向のある俺の代弁者だった。感情に名前を与えてくれたのもこの青年だったように思う。
ただ俺はそれが怖くて逃げるのに必死だった。余裕の出てきた今になって、やっとそれを申し訳ないと思う事が出来るようになった。

そんな事も全部引っ括めて、笑う。それが青年の強さ。俺はそれに憧れていた。昔も、そして今も。
ただ見透かされるのにはいつまで経ってもなれない。こうした思いさえ伝わってしまっているかもしれないが、無意味だとしても抱いてしまった感情を能面の下に押し隠す努力は惜しまなかった。
数歩いった所で相変わらず半分隠れている顔を気遣うものに変えて青年が口を開いた。

「『先生に捕まってた』って、前に言ってた英語の?」
「今日はアレじゃなくて、担任だ」
「何、言われたの?」
「日誌をきちんと書け、と」
「何だ、そんな事で」

それまで話を黙って聞いていた少女が鼻を鳴らして吐き捨てた。少女は俺に似ているから同じような経験があるのかもしれない。
青年と逆隣を見ると少女の表情が遠くを睨み付けて歪んでいた。余程嫌な思い出にタイムスリップしているらしい。いきりたつ少女の姿は珍しくてまじまじと見詰めてしまう。

「刹那、気にする事はない。アイツらは私達に難癖をつけたいだけだ」
「それは違うと思うけど… ねぇ、ハレルヤ」
「いいや、そうに決まっている」
「何か嫌な事でもあったのか?ソーマ」
「思い出したくもない」

少女が人前にも関わらず激昂するのはあまりない事だった。それは少女の逆鱗に触れる言葉が極端に少ない所為だ。何せたった一つしかない。
だから怒りを露わにする少女を目にするだけで、どういった類いの言葉をぶつけられたのか容易に察する事が出来た。
その想像に嫌悪感を抱く。そんな事を言う教師がいるのか。
重い沈黙が場に垂れ込めてきたので、気を利かせた青年が口を開いた。

「刹那、お腹空かない?買い物の前に何か食べようか?」
「どちらでも良い」
「ソーマは何か食べたいものある?」
「私は何でも良い」
「はは…、 そういうのが一番困るんだけどなぁ」

青年は苦笑して頬を掻いた。






結局食べたのはアイスクリーム。俺と彼女が声を揃えて提案したのが決定打となった。
俺達は今も昔も青年の笑顔に弱い。それがどんな種類であっても同じことだ。






    




































先週でテストが終わり、休む間もなく新たな週が幕を開ける。
先の土日の内に、一番早く授業を迎えるクラスの分だけでも先にやっつけてきたのか、月曜日の1時間目からテストが手元に帰ってくる事になった。
一度手を離れたものに興味はない。結果なら尚更どうでも良い。

「じゃあ名前順に呼ぶから取りに来て。解答はここに置くから、テスト貰う時に持っていくように」

ただ、学生の本分は勉学に励む事だ。そうも言っていられない。
テストの配布が始まった途端にざわめく教室を最後尾の席から傍観する。隣に座る少女も全くと言って良いほど表情に変化がなかった。
順番が近付き席を立つ。
テストの点さえ見ずに受け取り、席に戻ろうと踵を返す。

「刹那」

不意に後ろから声がかかり、振り向いた。
解答の書かれたプリントは貰ったので呼び止められる要因に心当たりがない。
疑問を投げ掛ける視線を呼び止めた相手へと送ると、にこりと微笑まれた。

「その調子で次も頑張ってね」

その顔は大輪の華が綻ぶと形容できる類のものだろう。その華も大振りだ。見る者は感嘆に溜息を吐くのではないだろうか。そのくらい周囲の空気を変える力がある。
しかし、それを苦手と知っている相手をわざわざ呼び止めてまで向けてくるのだから、趣味が悪い。
やはり喰えない相手だと認識を新たに返答はせず席に着いた。





テストを配り終えた所で解答に入る。今日は答え合わせで終わらせるつもりらしいと察して、足りない睡眠時間の為に充ててしまおうかと思案する。
コツコツ。
机を叩く音が届いて目立たない程度に横を見た。

“何か言われたの?”

紙面の裏面に走り書きでも形を保ったままの綺麗な字が並んでいる。
無機質な印象を受けるそれだが、性格を理解した今では少女の気遣いが滲み出てくるように思えるから不思議だ。
こちらも手近にあったテストをひっくり返し、シャープペンを滑らせる。

“問題ない”
“そう。あの先生、教え方は上手なんだけどね”
“あの笑顔がな”

人の本質を汲み取ろうとしてきたものだけが拾える感覚。理屈では説明できない直感のようなもの。それが二人を近づけた要因の一つでもある。
その感覚があの女教師に反応する。
特に実害があった訳でもない。が、あの笑顔。
あれは全てを隠す仮面。自己と他者、自己と環境を断絶する人当たりの良い壁だ。
今はまだ、信用してはいけない。それだけは、はっきりと分かる。
良いものか悪いものか、判断がつくほど本質を見せてきていない。情報が足りない。
覆いを纏っているものに対してこちらを曝け出すのはあまりに無防備というものだ。観察できる位置を保つべきだろう。
そして、そう判断を保留している事に気付いている。
距離をおいている事に、様子を窺っている事に、あの教師は気付いている。だから、からかいながらこちらが先に手の内を晒すように罠を仕向けてくる。
これだから頭の良い女は厄介だった。
放っておいてくれればいい。そうしたら触れる事もなくここを出ていけるのに。

“この学校を選んだ事、後悔してる?”
“あの英語教師に会った時にな”

実際にはこうしてあの英語教師以外にも細々と面倒事は多かったのだが、やはりあの変態が一番の悩みの種だ。
そんな意味合いを込めて返答したら、少女が声も出さず口許を隠した。だが肩が震えているので上手い隠し方とは言えなかった。
少し憮然として、窓の外を見上げた。今日も空は灰色をしている。


この少女といる時は笑い事だが、現実を見にすると笑えない。





    




































私はいつになく落ち込んでいた。同じ職場で保健室の先生をしている友人に言わせれば酷く珍しいらしく、事もあろうに気持ち悪いと宣った。
人間誰しも落ち込む事くらいあるだろう。失敬な。
あの男は良いアドバイスをくれる反面、私には厳しいような気がするのだが気のせいだろうか。
しかし私は落ち込んでいる。そんな事を言われても言い返す元気もないほどだ。
もう何度目かを数えるのも諦めた溜め息を吐く。
溜め息の度に幸せが逃げていくというのをどこかで聞いた事もあるが、今の私に逃げていく程沢山の幸せがあるとも思えなかった。

今日で3週間。もう3週間だ。
顔も、声も、後ろ姿すら見ていない。
正確には1週間に一度は授業があるのでその時会っているのだが、それは必然に迫られた会合であり私の望む運命性を孕んだ偶然の出会いではない。
そんな必然に仕組まれた機会でさえ会うというより見るという方が正しく、ものの見事に視線さえ合わない。
ただでさえ私の想い人に会うのは運と勘と努力を総動員しなければならないのに、テスト週間が重なり職員室で机に齧りつかざるを得ない状況が、会いに行くというなけなしの努力すら封じ込める。
努力する余地まで奪われてしまっては万策尽きたと言わざるを得ない。
天は私を見放したのだろうか。

「先生、元気ないですねー」
「どうかしたのー?」
「そんな事はないよ。心配してくれてありがとう」

何という事だ。授業中だという事を忘れる所だった。今まで仕事を疎かにした事など一度もなかったというのに。自覚はないが大分参っているらしい。
声をかけてきてくれた女子生徒に笑顔で返したが、きちんと笑顔の形をしているか少し心配になった。
今は授業に集中しなければ。これは正当な報酬の上に成り立つ義務なのだから。
気を取り直す為にすぅ、と大きめに呼吸をした。吐き出した二酸化炭素を見送り視線を上げる。と。
そこにあったのは焦がれた臙脂の赤。
真紅よりも一段と深い赤。
南中を通り過ぎる前の明るい光が反射して、一時だけ朱に見える瞳が逸らされる事なくこちらを写していた。
時が、音が、止まる。

「センセー?」
「あ、あぁ、何でもないのだよ」

間延びした高めの声にもう一度呼び掛けられた所で美しいガーネットの原石は隠れてしまった。折角私という陽の目を見たのに、また瓦礫の中に迷い込んでしまったようだ。
だが私は見失いはしない。どんな障害があろうとも全て薙ぎ払って探しだしてみせよう。
何、愛に障害は付き物。だから心配はいらない。私たちは運命の赤い糸で結ばれているのだからね!






    




































「今日は逃げる」
「わかった。出来るだけ引き留めてみる」
「済まない」

小声で、念には念を入れて視線さえ合わさずに会話する。
少しざわついた教室であればそこまでしなくても教師に内容まで拾われる事はまずないが、相手は何せ普通の枠には嵌まらない。枠に嵌まらないだけでは飽き足らず、枠の外に新たな自分専用の枠を作ってしまうような人物なのだ。普通という物差しが使えない以上、準備は抜かりなくしておかなければならない。全く、型破りにも程がある。
それと言うのも今日は昼食をどこかで調達しなければならない事態に陥ったからだ。
食べないという事もできたが、育ち盛りに優しくないその選択肢は2時間目が始まる前に捨てている。となると買いに出なければならない。教室の外に。
それだけならまだ良かったものの、今日の昼休み前にある授業は英語。何とも間の悪い事にこの学校で最も苦手とする相手の授業だ。何かと理由をつけて逃げ回っていると言うのに、教室の外に出るという事は捕まる可能性が限りなく高くなる。

入学して数日、何度か昼食を一緒にどうかと誘われ、その度に苦痛以外何物でもない時間を強いられてきた。
昼休みの時間中解放される事はなく、こちらから話題提供を一切していない筈なのに何故か話が途切れない。更に色々なものをくれようとするのだ。
貰えるものは貰う主義だが一見しただけでも高価だと判断のつくようなものばかりなので受けとる訳にもいかない。一度きっぱりと高価なものは貰えないと断ったのだが、次の日安価ならば良いのだろうと真紅の薔薇の花束を持ってきた時には目眩を感じた。俺の断り方に悪い所があったのか。そうか。そうに違いない。次からはきちんと贈り物は値段に関係なく頂けないと分かりやすく言おう。
どこの国の豪族なのかと半ば本気で疑ったものだ。
まぁ、話は聞き流せば良いしプレゼントも受け取らなければ良い。
だが我慢ならない事が一つ。顔が近いのだ。
身体的接触を嫌う事は最初の会合で理解してもらえたらしく、それからは数える程度しかないのだが、その代わりのようにパーソナルスペースを狭めてくる。
本人に意図はないのかもしれないが、はっきり言って気持ち悪い。
接触でなくても他人と近接距離にいるというだけで苦痛なのだ。相手が教師という肩書きを持っていなければ早々に戦闘不能にして退散しているのに。
英語の教師なだけにこの国の微妙なニュアンスが通じないのだろうか。いや、はっきりと拒絶の意を伝えている筈だ。それはもう意味を取り違える余地もない程はっきりと。
教師のモラルは一体誰が取り締まっているのだろう。その役を担う誰かがいるのならそいつの目は節穴だ。

黒板の縁にかかっている時計がもうすぐ3時間目の終わりを知らせようとしている。
時計から目を逸らした所でふと気付いた。
薄い空色の目がこちらを見ている。丁度時計の下にある顔が呆けたように一点で止まっていた。

不味い。

自然な風を装って外したがどれだけの効果があるだろう。あの教師を喜ばせるだけだと分かっていたから今まで意識的に視線を合わせる事のないようにしていただけに、今の不注意は悔やまれた。
目立たないように鞄から財布を取り出してポケットに忍ばせる。今日は全力で行かなければならない。生半可では捕まる。
黒板には綺麗な筆記体が落書きのようにあちこちで踊っていて、一分前のステップさえ判らなくしている。今からノートを取るのは諦めて号令がかかるその一瞬に意識を集中した。






    




































「………」

落ち着いた音が静かに降りる。
薄く引いたカーテンに陽射しが透けて見えるような優しい音。
澄んでいて。
暖かくて。
もう少しここにいたいと願う。

「……な」

何やら呼ばれているようだ。
あとちょっとだけ留まりたかったけれど。
呼んでくれる数少ない人たちの為に、戻らなければ。

「刹那」

三度目。今度はきちんと届いた。
肌をヒヤリと外気が撫でて覚醒を促している。すとんと地に足を着ける感覚を得て現実に降り立った。
喚んだ相手を探して首を左に巡らせれば、探すまでもなく風の形をなぞるカーテンの中に少女を認めた。
色の抜けたカーテンは光を集め、より暖かさを増してふわりと舞い上がり少女を守ろうと包む。少女の方も脇に控える、風と手を組んだ騎士に好きなようにさせてこちらを見ていた。
少女の赤い髪が毛先だけ浮き上がり流れる空気を目に見えるものへと変える。それを目にかからないように押さえて微笑む金の眼に吸い込まれた。
不意に落ちた影で少女が近付いた事を知る。不思議に思って追うと小さく触れる感触。
柔らかなそれが触れたと思った次の瞬間には、全てが蜃気楼だったように元に戻っていた。

「おはよ、刹那。よく寝てたね」
「ネーナか。今、何時?」
「んー、4時半、だよ」
「もうそんな時間か」

ぐ、と手をついて上体を起こし少女が見ていた方向を追う。黒板にかかった時計は、少女の言う通り夕方という呼称を持つ時間が、間近に控えている事を告げていた。
太陽の光は優しすぎる。見返りも何も求めないままひたすら与えてくれるから甘えてしまう。
まだくっつこうとする目を擦って瞼を持ち上げる努力を後押しすると、奥をみはるかそうとする視線がこちらを覗き込んでいる事に気付く。無言で問うと首を傾げた少女が口を開く。

「嫌がらないんだ」
「何を?」

何でもない、と笑顔の形にした顔は本当に嬉しそうに見えた。
それを前にしてしまえば答えを貰えないままでもまあ良いか、と納得できた。






    




































「せっつなー!」
「ネーナ、暑い。離れろ」
「おはよう、ネーナ」

静かに挨拶をした桃色の髪の少女に嬉々として鸚鵡返しする来訪者は、人の上に乗り上げたままぐぐ、と右隣へ手を伸ばす。降りろ。挨拶なら他所で、せめて肩にかかる重みを何とかしてからにしろ。
視界に入る白い腕。背中に当たる柔らかい感触を敢えて無視して背後には届かない一瞥を送る。

「刹那、暑いの得意なんだからこれぐらい平気でしょ」
「そういう問題じゃない」
「ケチー」

背中から覆い被さる少女は金の目を眇め、文句を言いながらも素直に退ける。少女が離れたのを見計らって張り付いてしまった襟を、ぐい、と引き再び空気が通るように道を作った。
正面に回った気の強そうな顔を見上げれば、まだ不服そうな顔で腕を組んでいる。
不服なのはこちらの方だ。暑い、暑くない以前に俺が触れられる事に嫌悪感を抱いているのを知っている筈だ。それなのにこの少女はやたらスキンシップをしたがる。何故、俺の周りはこんな奴ばかりなのだろう。放っておいてほしいのに。
ただ、強引ではあるが本気で嫌がる事はしない。そういった境界線の引き方と引き際の良さには好感を持てたから、差し引きゼロという事で少女を邪険に扱わずに収まっている。それをどこぞの英語教師にも分けてやってくれ。

「何かあったの?」
「え?」

隣に座る少女がことんと首を傾けて尋ねると、尋ねられた方は質問意図を掴めなかったのか、かくんと首を合わせ鏡のように傾げた。
噛み合わない会話に助け船を出すべく補足を口にする。

「用があるから来たんじゃないのか?」
「え?あ、ううん、刹那に会いに来ただけ」

何、心配してくれたの、と嬉しそうに近づく三日月の目から逃れ、してない、と無感動に返す。失敗した。調子に乗せてしまった。離れろ。顔が近い。
隣を見ると、きょとんと不思議なものを発見した様子で首をかしげた少女に出会した。
俺達はこういった行動が理解できない。会いに来ただけ。校内にいれば廊下ですれ違う事もあるだろうし、何より俺に会うだけなら他に機会などいくらでもあるだろう。会わない方が難しい。会いに来るなど無駄ではないのか。
それに心配してもらえたのかと思っただけでこの反応。何が嬉しいのか。心配をかける事を申し訳ないとは思わないのだろうか。心配をかけるという事は相手の手を煩わせる行為だろう。

「もう、刹那ってつれなぁい。女の子には優しくしないとモテないよ!……モテても困るけど」

勝手に思考に埋没していた俺も俺だが、正面の少女も一人で会話し始めたので相手をする気が急速に落ち込む。このまま教室に帰ってくれれば良い。そもそも何で上級生がこの教室に堂々といるのか凄く疑問だなはずだが、慣れとは恐ろしい。違和感は感じなくなっている。
つらつらとこちらはこちらで考えに耽っていると、退屈したのか隣の少女が指さしと共に声を上げた。

「それ、どうしたの?」
「それ?」
「眼鏡」

言われて顔に手を這わせた少女が大声を上げる。いちいち騒々しい。
少女に指摘されてよくよく見ると、眼鏡の持ち主の髪より濃い臙脂色の細いフレーム。範囲指定された金の目がいつもより少しだけ小さい。

「忘れてた!失くすから置いてくるのに!」
「いつもかけてるの?」
「ううん、授業中だけ。ほら、私眼鏡似合わないし」
「そんな事ないと思うが」
「…!」

髪の色を移した様に顔に朱が走る。特に何か言った訳でもなかったのでその反応の意味がわからず、訝しげに眉をよせた。
口を噤んだ俺に代わって隣の少女が感想を述べる。

「ティエリアみたい」
「何それどーゆー比喩表現?」
「頭良さそうって事だろう」

当然その通りと頷く少女に、今度は赤い髪をした少女の方が不思議なものを見る目でこちらを見てきた。

「何で分かるの!?」
「それ以外考えられないだろう。何故分からない」
「いや、だって、分かる方がビックリでしょ!」

また煩くなる。そう思ったのだが唐突に叫び声は止み、妙に真剣な顔と向き合う事になる。どうしたのかと目で問うと口を開けては閉め、また開けては閉めた。
俯いた姿をそのまま見ていると意を決したようにがば、と頭が上がり、その勢いに少し怯む。

「前から聞こうと思ってたんだけど、刹那とフェルトって、」

そこで鐘が鳴った。無情にも。
何を言うつもりだったのか分からないが、次の授業が始まる。






    




































「刹那は腕出さないのな」

不意にかけられた声に振り向くと、予想以上に近い場所に人が立っていて後退った。
気配を消せるのだろうか。気がつかなかった。気配には敏感であると自負していたのに。
距離をとってから見上げると、傷つくなぁ、とぼやいて苦笑する顔がこちらを向いている。

「ロックオン・ストラトス…先生」
「前から思ってたけど、そのフルネーム呼び何とかなんないの?」

そう言う割りに満更でもなさそうに笑うから、この教師はよくわからない。
この教師は言動と内面が一致しない。今も、止めてほしいと口で言うくせに、呼ばれる事に喜んでいる節がある。判断に困る。
何と答えたものかと考えを巡らせている内に、痺れを切らしたのか教師はもう一度始めの問いを繰り返した。それに首を傾げる。

「質問の意味がわからない」
「えー、っと、半袖は着ないのか、って事だよ」
「ああ」

言い換えてもらって理解した。脈絡がなかった所為か、意味を解するのに妙に時間がかかった。
どこから出てきた疑問なのかが不明だったが、夏という季節を考えるとわからなくもなかった。
今日はこの地域に珍しく、とても綺麗に空が晴れた。天気予報は相変わらず外れていたが、こうした外れ方なら大歓迎だ。
ただ、今は一年で最も日の長い季節。太陽の力は並大抵なものではない。湿度も相変わらず高いこの土地は、焼けつく暑さというよりは纏わりつく暑さと表現した方が正しいだろう。風が吹けばいくらかマシにはなるが、この季節になって服が鬱陶しいと感じるようになったのは事実だった。
確かに服は鬱陶しい。だが。

「半袖を着る程の必要性を感じない」
「でも、暑いだろ?」
「では、先生は?」
「まぁ確かに、他人の事は言えないけどね」

一本取られた、と諸手を軽く上げながら言う表情は苦笑なのに、楽しそうに見える。本当にこの教師はちぐはぐだ。どちらを信じたら良いのか。
ただ、どちらにも負の感情は見受けられなかった。

「これからまだ暑くなるみたいだから、熱射病には気を付けろよ」

持ち上がった手がくしゃりと髪を混ぜる。子ども扱いに似たそれを、相手が教師という事で甘んじて受ける。嫌悪感が先走ってしまわないように、感触が通り過ぎるのを待った。
フ、と一瞬笑う音がする。頭の上の手が避けたので覗き込むと、少し歪んだ湖の目と鉢合わせた。
悲しそう。
じゃあな、と微笑んだ時にはいつもの陽に透けた目に戻っていて。反射の中で一ヶ所だけある全反射の残像を見たような気分が残った。





今回の接触も、向けられる感覚にマイナス面は見られなかった。でも結局、わからない。
他の人間なら見ていればわかる事が、わからない。あの教師が何をしたいのか、わからない。
また次回に判断を持ち越すべきかもしれない。






    




































「あ、アレこの間のガキじゃねえか?」
「え、誰?あ、刹那だ!せーつーなー!」

煩い連中に見つかってしまった。やはりあの逡巡が不味かった。脇目も振らず逃げておけば良かったと痛むこめかみを押さえる。

「刹那と会えるなんて凄い偶然!うっれしーい!」
「ガキ、お前またネーナにちょっかいかけてねーだろーなぁ?」
「どう見てもちょっかいかけられてるのは俺だろう…」

うんざりと返す言葉は誰にでも分かる程諦めを滲ませているのだが、目の前の二人にはきちんと届いたかどうか。例え届いたとしても、兄妹揃って都合の良い耳を持っているので聞こえているか怪しい。
疲れる。とても疲れる。
今まで敢えて触れないできたが、高校に上がってからというもの、不思議な人間との遭遇率が確実に上がっていると思う。出会う奴等全てがそうと言わないが、それにしても。そして大抵の者が理解の範疇を一足跳びで越えていくのだ。
まあ、理解の範疇を超えていく人間など世の中には五万といる。そこは百歩譲って認めよう。だが、俺のまわりでそれを存分に発揮するな。戻ってこい。そして俺を引き摺り回すな。
平凡に過ぎた小・中学生時代が平和だったような錯覚を起こしそうだ。

「刹那、この人達は?」
「ああ」

俺以上に困惑しているだろうに、それを苦笑で柔らかくした青年と視線が合う。意外に近くにいて首の角度がきつくなった。

「こっちが同じ高校の2年、ネーナ・トリニティ。で、こっちがその兄のミハエル・トリニティだ」
「よろしく〜!ね、刹那、そちらの二人は?」
「僕はアレルヤ。こちらは」
「ソーマだ」

少女の抑揚に欠けた紹介のあと青年は、僕らは刹那のお隣さんなんだ、とにこやかに付け足した。

「お隣さん!良いなぁ、私も刹那のお隣さんが良かったぁ!」
「無茶を言うな、ネーナ」
「あ!おい餓鬼!馴れ馴れしく呼び捨てにすんなよ!」
「ミハ兄うるさい。刹那はいーの!」

どっちも煩い。
こめかみを揉むように指をぐりぐりと動かす。押さえる手があまりに力が強くて、痛みが皮膚の下で形成された。多少痛みがあるくらいが良い。その痛みで喧しい声を排除できる。
早くここから離れたい。こいつらから離れたい。

「…刹那、そろそろ行こうか」
「!ああ。またな」
「えー!一緒に見ようよ〜!」
「ネーナ!そんな奴誘うなよ!」
「お前の兄もこう言っている。また学校で会えるだろう」
「えー」

一対多数。いつもなら、それでも我を通す所だが、やはり兄には多少なりと遠慮があるようだ。本当に多少だが。
膨らました頬をそのままに兄の方をじろりと睨むと、歩く度に地震でも起こす足取りで兄を引き摺って人混みに消えていった。
暫しその後ろ姿を見送る。ふと、まだ礼を言っていない事に気付いて、青年を見上げた。

「助かった」

青年も呆気に取られたように見詰めていたので、俺が何の事を言っているかすぐには分からない様子でコテンと首を倒して見下ろしてきた。
会話には殆んど参加していなかった隣の少女が、先刻の、と助け船なのか判断の難しい声かけをする。ああ、と言って青年の手を打つ動作が漫画のようだった。

「凄い人たちだったね」
「煩いだけだ」

確かに凄いかもしれないが、感心する所ではない。というかアレが近くにいて構ってくる状況下では、感心している暇を根こそぎ奪われる。
うんざりと目を細くして少女たちが消えていった方向に視線を送った。

「意外に楽しそうだった」
「うん、いつもと違う刹那が見れて良かったよ」

どこが。
どこか抜けた所のある青年が言うならまだしも少女までもが同意を示して、これ以上ないほど顔を歪めた。






    




































気が向いた日に寄る場所がある。バカと煙が好む場所であり、権力者が奪い合う場所だ。後者は大いに主観による見解だが、強ち間違いではないと思う。
それに、恐怖体験さえなければ誰もが好きなのではないかとも思う。ただ、ここの鍵が開いている事を、皆、知らないのだろう。





今日は珍しく晴れている。寧ろ、珍しく晴れの日が続いている、と言った方が正しい。だから久しぶりに、階段を余計に登る気になった。
授業終了の鐘が響くと同時に購買へ走る集団を見送る。隣の少女はそれに気を配る事もなく、鞄の中から小さなお弁当を取り出している。
いつ見ても、足りているのかを疑問に思うほど小さなお弁当だ。一度だけ堪えきれず少なくはないのかと尋ねたが、何故そんな事を訊くのか解らないという様子で。きょとんとした表情を前にしてしまえばそれ以上続く言葉などなかった。あの上目遣いを前にして、正面きって何かを言えるのは一つ年上の、明るい赤髪の少女くらいなものだろう。
購買に行った者達が戦利品を手に手に戻ってきている。それを見て、文庫本片手に立ち上がった。

「刹那、」
「今日は出てくる」
「ご飯、食べてね」
「…、考えておく」

じゃあ私はネーナの所にいるね、と広げたお弁当を簡単に包み直した少女と、廊下まで出た。
皆、腰をどこかに落ちつけて食事を摂っているため、話し声は聞こえるものの人影はない。その廊下を足音に注意しつつ歩いた。
先ほどの言葉が蘇る。食べてね、と言われて初めて、昼食を用意していない事に気付く。昼食を摂る事も計算に入っている休み時間だというのに、『食事』という考えが完全に欠落してしまっている。既に、食べる・食べないを選択する以前の問題だった。
その事に、少女の方が先に気付いていた。いや、ただ何も用意していないのを見咎めただけかもしれない。だが、少女がそう言った事を口にする事は少ない。余程気にならない限り、何かしらの意図を汲み取っては口出しを手控える。と、言う事はその限度を越える確信があったという事と言えるだろう。
自身が気付かなかった何らかの法則性を見破られている。自分には見えない側面を見られている。
ザワリと背筋が伸びて何もない筈なのに後ろを振り返った。やっぱり何もなかったけれど、後ろにいる何かを恐れて階段を駆け上がった。
行き止まりの扉を壊す勢いでぶつかる。それより一瞬早く、伸ばした手がドアノブを回した。

「……!」

雲に遮られる事のない日差しが屋内の暗さに慣れた目を刺した。日光と目の間に手を挟み、更に目を細める。
本で見た外国の写真のような突き抜ける青空とはいかなかったが、雲の白を混ぜたような見渡す限りの水色。これで地平線に海の水平線が繋がっていたら言う事なしの絶景だったのだろうが、目に写る地平線は建物に寄って細かな凹凸が出来、靄によって霞んでいた。
それでも、この場所の居心地の良さに変化はなく、空に手が届きそうな錯覚が現実味をなくしてくれた。自然と笑みが浮かびそうになり、それを眩しさの所為にして目を眇めるに止めた。





給水塔の上まで登り、息をつく。横になった状態で見上げれば、視界が水色で一杯になった。手が届きそう、とは思わない。伸ばした所で空を切ると実感を持って理解している。それでも、ふわふわとした高揚感にも似た浮遊感は、この場所にいつでも居座っているようだった。
ごぉ、と耳許で唸りを上げる風が、巻き上げるものを見つけられずに上へ吹く。
浮かれているのだろうか。体を通り過ぎていく風は、気分を体現しているように強い力で体を撫で上げる。開いていたページがバタバタと靡き、文字という形での視認を難しくした。
本を持ち上げる腕も大分だるくなってきた。文庫とはいえ重さが無いわけではない、が、所詮は文庫なので高が知れている。それよりも、それを支える自分の腕の重さに耐えられなくなってきた。
文庫を開いたまま顔に乗せ、腕を楽にした。風で飛んでいきはしないかと一瞬考えたが、古くてページが取れかかっている本であったので、買い直せば良いと珍しく楽天的に結論を出す。暗くなった視界と代わって、風の音が轟轟と大きく響いた。

「よく気付いたな」

聞き覚えのある、しかしこの時間帯に聞く筈のない声に、勢い良く跳ね起きる。抑える手が間に合わず、本も、思考も飛んでいってしまった。呆然と、小さく足元に見えている相手を目で探した。
相手はというと驚きを隠せずにいるはずのこちらには頓着せず、風に弄ばれる髪に指を通しつつ俺が落とした本を拾い上げる。タイトルを追っていた切れ長の目が滑らかにこちらを捉えた。

「普通、立ち入り禁止ってなってたら、登ってこないだろ」

あんな目立つ場所に階段もあるし、と純粋な疑問しか持ち合わせていない声が、風に浚われずに何とかこちらへと届いた。
教師のくせに咎めないのか。立場に見合わない態度であるがこの男らしくて、垣間見えた日常に思考が戻ってくる。
確かに、屋上へ続く階段は教室の並ぶ廊下の中央にある。見られる可能性は高い。

「でも先生も、来た」
「俺は教師だから」
「違う。誰にも気付かれなかっただろう」
「ああ、…確かに。それが、何?」
「あそこは、死角だ」

見えているようで見えていない。視界には入るのに、事実として認識しない。
常識が目隠しをしているからだ。有り得ないと思っている事は、それが些細な事であればあるほど起こらない。実際は起こっているのに、視覚が、脳が、認識を拒むからだ。
だから気付かない。屋上へ続く扉に鍵がかかっていると思っているから。そんな所に繋がる階段を登っていく人間などいないと思っているから。起こらないのだ。
人間とは斯くも都合良く出来ている。後はその隙間に入り込むだけ。
教師の顔にはまだ疑問符が浮かんでいたが、これ以上説明する気はなかった。どうせ、理解出来ない。
口を閉ざした俺を教師は縋るように見ていたが、無視を極め込む。随分と大きな溜め息だけが耳に届いた。

「なぁ。この本、貸してくんねぇ?」
「は?」
「その代わり、こっち貸しとくからさ」
「ちょっ…!」

ひらりと揺れた手しか見送る事が出来ず、何を言われたのか理解するまでに少しの時間を要した。
そのラグが命取り。体が動くようになってから給水塔を飛び降りる。先ほどまであった姿は夢であったように消え失せ、丁度足元に置かれた本が現である事を示していた。それを手に取る。
タイトルを見る。ひっくり返して、裏表紙。背表紙を眺めてからもう一度、指でなぞりながら読み返す。やはり、見間違い、ではない。

「………万葉集」

何故。
このチョイスには大いに疑問を感じる。何故、よりにもよって何千年も前の詩歌なんだ。

「やはり、よく、わからない」

呟やく事で言葉が真実味を帯びた気がした。それでも、違和感は拭えなかった。
水色の空に、飛行機が線を引いていく。




























































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